弘前城
弘前城
弘前城は津軽を統一した津軽為信が築城を計画し、二代藩主津軽信枚が慶長15年(1610年)に着手して翌年に完成した城で、廃藩まで津軽氏が居城となります。明治6年(1873年)に廃城令により弘前城は廃城となり本丸御殿などは取り壊されましたが、天守は残され東北唯一の現存天守となります。
- 弘前城
- 〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1
- 松本城
- 〒390-0873 長野県松本市丸の内4−1
- 丸岡城
- 〒910-0231 福井県坂井市丸岡町霞町1丁目59
- 犬山城
- 〒484-0082 愛知県犬山市犬山北古券65−2
- 彦根城
- 〒522-0061 滋賀県彦根市金亀町1−1
- 姫路城
- 〒670-0012 兵庫県姫路市本町68
- 松江城
- 〒690-0887 島根県松江市殿町1−5
- 備中松山城
- 〒716-0004 岡山県高梁市内山下1
- 丸亀城
- 〒763-0025 香川県丸亀市一番丁
- 松山城
- 〒790-0008 愛媛県松山市丸之内1
- 宇和島城
- 〒798-0060 愛媛県宇和島市丸之内
- 高知城
- 〒780-0850 高知県高知市丸ノ内1丁目2−1
明治28年(1895年)に弘前城は弘前公園として解放され、昭和27年(1952年)に国の史跡に指定されました。明治末期から市民による桜の寄贈が盛んになり、現在は2,600本の桜が植えられ桜の名所になっています。
津軽氏と弘前藩
弘前藩の藩祖である津軽為信は、天文19年(1550年)生まれで父は大浦守信と伝わり、かつては大浦為信と呼ばれていました。南部氏の支族である久慈氏から派生した一派で、南部氏の最盛期を築いた南部晴政に仕え、現在の弘前市に大浦城を構えていました。
南部晴政には男児がいなかったため長女の婿として石川信直を養子に迎え入れますが、元亀元年(1570年)に息子の晴継が誕生したため、南部晴政は石川信直を疎んじるようになります。こうした主家の状況を見定め、元亀2年(1571年)に大浦為信は石川城を攻め落とし、石川信直の父・石川高信を討ち取ります。
天正3年(1575年)には滝本重行に父を殺された乳井建清を臣従させ、滝本重行が守る大光寺城を攻めて滝本重行を追放します。天正6年(1578年)には浪岡城を襲撃して浪岡顕村を滅ぼすことに成功し、津軽地方を平定しました。津軽を追われた旧領主たちは天正7年(1579年)に平川市の六羽川で激突しますが、大浦為信はこれを退け津軽地方の支配を盤石なものとします。
天正10年(1582年)に南部晴政の跡を継いだ南部晴継が早世し石川高信が跡を継ぐと大浦為信は主家から敵視されるようになり、大浦為信は天正13年(1585年)に油川城、田舎館城などの南部氏の諸城を攻略して津軽地方をほぼ制圧します。
しかし、周囲を敵に囲まれる環境では時の覇者である豊臣秀吉に謁見することができず大名としては認められていませんでした。そこで天正17年(1589年)に秋田(安東)実季と和睦して家臣を上洛することに成功すると、石田三成の取次により豊臣秀吉から所領を安堵され、津軽姓を称するようになります。
関ヶ原の戦いでは三男・信枚とともに東軍に加担することで津軽一円の大名として存続することになりますが、その一方で秀吉の恩に報いるため石田三成の三男・重成と三女・辰姫を保護しています。また、新たな時代の統治に向けて、慶長8年(1603年)に現在の弘前城の築城に着手し、2代藩主信枚が築城を引継ぎ完成させました。
弘前城
慶長16年(1611年)に完成した弘前城は5層5階の天守を有する立派な城でした。しかし、寛永4年(1627)に天守のシャチホコに雷が落ち火災が発生すると3層目にあった火薬庫に火が回り大爆発を起こしました。この火災により、翌年には魔除けのため高岡城から弘前城に名称を変更しています。
思いのほか小さい印象です
夕方になるとライトアップされます
火災により焼失してから天守のない城となりますが、およそ200年後の文化7年(1810年)に9代藩主・津軽寧親の時代に幕府から許しを得て、本丸にあった辰巳櫓を改築し天守としました。現在は石垣工事のため移築されていますが、当時建てられた3層3階の天守が現在も残されています。
弘前城は3つの櫓と5つの城門が現存しており、これら全てが国の重要文化財に指定されています。弘前城の玄関にあたる重要文化財の追手門を抜けると三ノ丸に入ります。三ノ丸では追手門から侵入した敵と戦うことになるため広い空間になり、三ノ丸からは重要文化財の辰巳櫓が眺められます。
弘前城の玄関にあたります
辰巳方面(南側)にある櫓です
辰巳櫓を眺めながら三ノ丸を掘りづたいに進むと朱色の杉の大橋が見えます。杉の大橋は三ノ丸と二の丸をつなぐ役割があるため、攻城されたときに進軍を阻むため燃えやすい杉材で造られていました。文政4年(1821年)に濠の両側を石垣に改築したときに桧材に架け替えられています。
杉の大橋を渡ると、敵の襲撃に備えるために脇戸付の櫓門である南内門に繋がります。南内門に限らず建物の屋根は銅瓦葺をしており、雪の重みで倒壊しないための工夫で雪国の城の特徴とも言えます。南内門は国の重要文化財に指定されています。
燃えやすい杉材で作られていました
二の丸の南側玄関口にあたる門で国の重要文化財です
南内門を抜けると朱色の下乗橋が架けられています。二の丸から本丸を繋ぐ下乗橋は、ここで馬を降りて天守まで歩くことから下乗橋と言われました。下乗橋から本丸に続く道の石垣には、藩主の威厳を示す大きな鏡石があり、亀の石と呼ばれています。
弘前城で一番大きな石だそうです
天守のあたりは岩木山の絶景スポットです
本丸には現在資料室として活用されている天守があり無料で見学することができます。また、天守のあたりからは岩木山の眺めが良く、早朝には地元の方が集まってラジオ体操をしており、天気の良い日の朝は清々しいです。
本丸を通過して反対側の二ノ丸に戻ると国の重要文化財に指定される二の丸東内門があり、その東内門の前には与力番所の建物が残されています。与力番所は上級武士として仕えていた与力が見張り役として警護した詰所で、弘前城には追手門を始めとする十二カ所に番所が設けられていました。
東内門を警護する人の詰所です
城内側から見た東内門は殺風景です
与力番所の目の前にある東内門は慶長15年(1610年)に弘前藩2代藩主・津軽信枚によって建てられたものです。二の丸東側は、敵の侵入を阻むために道が曲げられた枡形になっており、その終点に設置されている櫓門が東内門になります。
天守資料館とその周辺
現在の天守内部は資料館として無料で一般公開されています。もともと櫓を改築したものであるため内部は広くはありませんが、天守の矢狭間や石落としの構造や津軽藩に纏わる展示を見学でき、最上階からは岩木山を眺めることもできます。
ライトアップの弘前城天守と月です
屋敷が広がる中で隅に天守があります
弘前城は東西に流れる2つの川を自然の要害としていました。南には溜池を作って防衛線としましたが、その先には丘があり攻城する時の拠点となりうるため丘は削られ、藩主の菩提寺である長勝寺を始め、33の禅寺を集中して配置して長勝寺構えが造られました。
津軽藩の公式紋である杏葉牡丹紋があります
石垣の強度を増すために取り付けられた隅石です
現在の天守は、石垣の大修理を2015年から行っているため移築されています。その天守の近くには取り外された石垣の一部である長さ27メートル、幅1メートル、高さ0.6メートルある重さ3.1トンの隅石が展示されています。イカの形をしているため通称いかすみ石と呼ばれ、石垣の強度を増すためこのような形状をしています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1
- アクセス
- JR弘前駅からバスで15分
- 営業時間
- 9:00~17:00(4/23~5/5は7:00~21:00)
- 料金
- 有料区画は320円
- 地図