禅林街(禅林三十三ヶ寺)
弘前にある禅林街は、慶長8年(1603年)に弘前藩二代藩主・津軽信枚が、弘前城の南西(裏鬼門の方角)の砦として津軽一体の曹洞宗33ヶ寺を約600メートルの道沿いに集めた全国でも類例のない街です。入口にあたる黒門から一番奥に位置する長勝寺まで林のような並木道に沿って禅寺が並ぶことから禅林街と呼ばれます。
禅林街
弘前城を築城するにあたり津軽為信の軍師として活躍していた沼田祐光(面松斎)が弘前城の縄張りにおいて四神相応の思想を採用すると、風水の観点から禅林街がある方向は弘前城から南西方向の裏鬼門に位置しました。
裏鬼門を封じるため、弘前藩津軽家の菩提寺である長勝寺を上寺、藩祖津軽為信の実父とされる武田守信の菩提寺である宗徳寺(耕春院)を下院として多くの寺院が集められました。
一直線の道の両側に禅寺が並びます
最奥にある寺院が津軽家の菩提寺である長勝寺です
上寺の門前には黒門、下寺の門前には赤門が配置され、時代により増減はありますが曹洞宗の寺院だけが上寺通りに20寺、下寺通りに12寺、その他1寺で合計33寺が集められています。
上寺の入口にあたる黒門です
赤門の先に下寺が並びます
禅林街は軍事的にも重要視され、禅林街の入口は枡形(虎口)になり、その両側は大規模な土塁で囲まれているため、弘前城の南西方面を守備する出城のような役割があり「長勝寺構」と呼ばれました。禅林街は「津軽氏城跡弘前城跡長勝寺構」として昭和27年(1952年)に国指定史跡に指定されています。
長勝寺
禅林街の最奥にある長勝寺は、大浦盛信が養父である大浦光信を弔うため菊仙梵寿を招いて享禄元年(1528年)に種里(現在の鰺ヶ沢町)に創建し、慶長15年(1610年)に弘前城の裏鬼門を封じるために現在の位置に移されたと言われます。
国の重要文化財に指定されています
国の重要文化財に指定されています
長勝寺は弘前藩津軽家の菩提寺ではないものの、津軽家の先祖代々の墓がある旧菩提寺として領内曹洞宗の僧録所の格式を与えられています。また戦後に津軽家当主の菩提寺である報恩寺から霊廟が遷され、環月臺、碧巌臺、明鏡臺、白雲臺、凌雲臺が置かれています。
津軽家の霊廟が置かれています
大浦城から移築された庫裡で国の重要文化財です
長勝寺本堂は八室からなる大型のもので方丈型の曹洞宗本堂として全国的にも最古に属するものです。明治時代に発令された神仏分離令により岩木山神社の別当寺院であった百沢寺が廃寺になると岩木山神社の本地仏であった三尊仏とそれを納める厨子が遷されています。
静かな佇まいです
金色の仏像が安置されています
三尊仏は慶長15年に弘前藩二代藩主・津軽信牧が寄進したもので、阿弥陀如来、十一面観世音菩薩、薬師如来で構成されています。また厨子は寛永15年に弘前藩三代藩主・津軽信義が寄進したものです。
栄螺堂
天保10年(1839年)に豪商・中田嘉平衛が寄進した八角形の栄螺堂は、俗称を六角堂といい、海難で亡くなった方や天明・天保の大飢饉で餓死した方を弔うために建てられました。特に天明3年に発生した大飢饉では弘前藩の約3分の1にあたる8万人が餓死したとも言われています。
八角形の形をしています
内部に入ることはできません
栄螺堂は、右回りの螺旋状の回廊と直進階段を併用して昇降する不思議な建物で、東北では会津飯盛山のさざえ堂(円通三匝堂)しかありません。
禅林公園
長勝寺の隣には禅林公園が整備されています。ここには昭和16年(1941年)に忠霊塔として着工して昭和20年(1945年)に完成した忠霊塔があります。昭和23年(1948年)にはタイから贈られた仏舎利を納めたことから仏舎利塔と名称を変えています。
忠霊塔があるだけの更地です
太平洋戦争の戦死者が祀られます
忠霊塔は旧陸軍墓地と津軽家の家臣・柳川家墓地の跡地に建設されました。太平洋戦争後は2万余りの戦死者が祀られ2,000余りの遺骨が安置されていましたが、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策により取り壊す予定でした。しかし昭和23年(1948年)に仏舎利の分与を受けて破壊を免れ現在に至ります。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒036-8273 青森県弘前市西茂森
- アクセス
- JR弘前駅よりバス約15分「茂森町」下車後徒歩5分
- 営業時間
- 特になし
- 料金
- 参拝無料
- 地図