高山稲荷神社
高山稲荷神社は鎌倉時代から室町時代にかけて安東氏により創建されたと言われます。多数の朱色の鳥居が立ち並ぶ千本鳥居が観光客に人気で、神社入口の大鳥居手前の展望台には、明治22年に座礁遭難した米国商船の慰霊碑「チェスボロー号遭難者慰霊碑」があります。
高山稲荷神社
高山稲荷神社は、明治26年(1893年)の火災により社殿とともに記録が焼失したため不詳ですが、鎌倉時代から室町時代にかけてこの地を治めていた豪族・安東氏の祈願所として創設されました。祈願所として栄えますが、嘉吉3年(1443年)又は永享4年(1432年)に南部勢による焼き討ちにより焼失します。江戸時代に赤穂浪士の討ち入りで赤穂藩がお家取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷様を赤穂藩士の「寺坂三五郎」が津軽に逃れ当社に祀ったことが始まりとされています。
急な階段が待っています
階段を上った拝殿の麓に手水舎があります
高山稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、佐田彦命(さたひこのみこと)、大宮能売命(おおみやめのみこと)で、五穀豊穣、海上安全、商売繁盛などにご利益があるとされます。拝殿は明治25年の火災により焼失していますので、その後再建されたものになります。
明治25年の火災で再建されました
拝殿や手水舎の麓に摂社が並んでいます
拝殿の向かい側の下の方には千代稲荷神社、大島稲荷神社、三五郎稲荷神社が安置されています。また拝殿の脇から奥に進むと三王神社のほか、作丈一稲荷神社、よんこ稲荷神社、熊五郎稲荷神社が安置されています。
三王神社は、高山稲荷神社の創建より前に遷座していました。室町時代の南部勢による焼き討ちでは、山王大神が黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まったと伝えられます。江戸時代の古地図には高山の地は三王(山王)坊山と記されており、山王坊日吉神社を中心に十三宗寺建ち並ぶ一大霊場になっていました。
千本鳥居
高山稲荷神社の見どころである千本鳥居は、高さ約2メートルの鳥居が延々と並びます。千本鳥居の歴史は短く、およそ40年ほど前から整備されたもので、地元農家が幾本かの鳥居を奉納したのが始まりです。以来、続々と鳥居が奉納されて現在の姿になりました。
千本鳥居の起点には龍神宮があります。この周辺は湿地帯で湧き水による龍神池が出来ており、孤島に龍神宮が設けられています。龍神宮から鳥居が始まり蛇行しながら千本鳥居が形成されている姿は、龍の動きのようにように見えます。
池に囲まれた孤島にあります
龍神池の水に囲まれています
千本鳥居で全国的に有名な伏見稲荷大社は約800基あり、高山稲荷神社は約200基が設置されています。鳥居のトンネルからは千本鳥居の横に整備される日本庭園の造りが眺められ、流れる水は龍神池まで続いています。
高さ2メートルの鳥居のトンネルです
日本庭園に朱色の鳥居が蛇行しながら続きます
千本鳥居の出口にあたる高台には神明社があり、展望台から振り返れば朱色の鳥居が日本庭園の中に幾重にも蛇行しながら続いている景色が広がります。ゴールデンウィークの時期は新緑の中にピンク色の桜の花が咲き、朱色の鳥居が映えます。
千本鳥居の終点にあります
役目を終えたお稲荷様が祀られています
千本鳥居の奥にある小神祠公園には、天照大神を祀る神明社があります。その脇には狐の墓場と呼ばれ、東北地方の神社で役目を終えたお稲荷様がずらりと並んでいます。お稲荷様の魂は神様に返されていますが、現役を引退した稲荷神の像が一列に並んでいます。
高山展望台
高山稲荷神社の大鳥居の外にある坂道の上には日本海を見渡すことができる展望台があり、その奥にはアメリカの帆船チェスボロー号の慰霊碑が建てられています。
チェスボロー号は、明治22年(1889年)に悪天候により七里長浜沖で座礁、大破しました。村人が救助にあたりましたが、船員23名のうち4名しか生存しませんでした。この事故で犠牲となった乗員の霊を慰めるために昭和45年(1970年)に慰霊碑が建立されています。
展望台からは七里長浜を見渡せます
犠牲になった19名の名前が刻まれます
チェスボロー号の座礁では青森県の援助を得るため若者二人が県庁までの64キロメートルを走り、村人の工藤はんという女性が遭難者を人肌で温めて蘇生させたという美談が残されています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒038-3305 青森県つがる市牛潟町鷲野沢147−1
- アクセス
- JR 五所川原駅より車で約30分
- 営業時間
- 9:00~17:00
- 料金
- 参拝無料
- 地図