瑞鳳殿

瑞鳳殿は寛永14年(1637年)に建立された仙台藩初代藩主・伊達政宗の豪華絢爛な霊廟です。瑞鳳殿は昭和6年(1931年)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)の仙台空襲で焼失したため昭和54年(1979年)に再建されたものです。敷地内には、感仙殿として仙台藩二代藩主伊達忠宗、善応殿として三代藩主伊達綱宗の霊廟や伊達家一族の墓が残ります。
伊達政宗と満海上人
瑞鳳殿がある経ヶ峯は、満海上人が大般若経を峯に埋めたことから経ヶ峯と名付けられました。かつて満海上人が観音堂を建てて修行した聖なる山として、瑞鳳殿の敷地内には鎌倉から室町時代の頃に建てられた板碑(板状の石碑)が数多く残されています。
満海上人は天正年間(1573~1592)に気仙沼で生まれ弥勒菩薩に深く帰依し自ら即身仏(ミイラ仏)となるため入定した湯殿山の修験者です。伊達政宗と同じく隻眼(片目)の僧侶で、伝説上の修験者として名高く各地に伝承が残されています。
鎌倉から室町時代の板碑です
伊達政宗は満海上人の生まれ変わりと言われます
伊達政宗の母である義姫は夢枕に白髪の僧侶が出てきて「胎内に宿を借りたい」と仰せられ政宗を懐妊したと言われています。政宗自身も幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明していることから、懐妊時に胎内に入ったのが満海上人ではないかとの逸話が残ります。
政宗が隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗の存命中から広く知られており、東北地方の昔話の中には、仙台様(政宗のこと)の霊力で母親の病気を治してもらうために旅をする話などが残されています。なお、政宗が自身の霊廟(瑞鳳殿)の位置を指示した場所は満海上人の墓と同じ場所という不思議もあり、瑞鳳殿の片隅には平成元年(1989年)に満海上人の供養塔が建立されています。
涅槃門
瑞鳳殿の入口にあたる門は涅槃門と呼ばれます。涅槃門も昭和20年(1945年)の仙台空襲で焼失したため昭和54年(1979年)に再建されています。涅槃とは仏教の用語で「煩悩を取り除いた悟りの境地」の状態を指すもので、この門の先は伊達政宗が眠る聖域になることを意味します。
涅槃門は焼失前は香木である白檀が使われていましたが、樹齢数百年の青森ビバに黒漆を施し梁には金箔の上に唐草模様の透かし彫りが張り付けられています。門扉に施されている菊の紋は豊臣秀吉から政宗が拝領したもので、正面にある正門は政宗の魂が通過するため観光客などは正門の脇から入場します。
下界と極楽浄土を分ける門です
伊達家の重臣たちが奉納した燈籠です
涅槃門から唐門までの石段両脇には政宗が亡くなった翌年に伊達家の重臣たちが奉納した石燈籠が安置されています。亘理宗根、奥山大学、茂庭良綱のほか白石城主・片倉小十郎重長など歴史上名前を残した面々が奉納した石燈籠です。
霊廟に礼拝する門です
唐門の中に伊達政宗が眠る瑞鳳殿があります
石階段を上がった拝殿の内部に入ると、拝殿と唐門の間に広くはありませんが空間があります。ここには伊達成実など伊達家一門の石燈籠がありましたが、昭和20年(1945年)の仙台空襲で瑞鳳殿が焼失したときに石灯籠も破損してしまいました。
瑞鳳殿
寛永13年(1636年)、伊達政宗がホトトギスの初鳴きを聴くため奥山大学常良とともに北山、青葉山、経ヶ峯を訪れた際、経ヶ峯の山中で奥山大学常良に対して「死後、ここを墓所とせよ」と指示し杖をその地に刺しました。しばらくして江戸に赴いた政宗はそのまま逝去します。政宗の亡骸は江戸から仙台に戻り遺命に基づき経ヶ峯に葬ることになります。
瑞鳳殿は二代藩主・伊達忠宗により遺命を受けた奥山大学常良を総奉行として創建が始まります。墓室を造るため政宗が生前指示した場所を掘り起こしてみると錫杖や数珠、袈裟などが入った石室が見つかり土地の古老から満海上人の墓だと伝えられる不思議がありました。しかしその場所は崖に近く崩壊の危険があるため、苦心の末に少し位置をずらして寛永14年(1637年)に桃山様式の絢爛豪華な霊廟が完成しました。
墓室は正面下ではないようです
桃山様式の色鮮やかな絢爛豪華な建物です
瑞鳳殿とそれに付属する涅槃門などは昭和6年(1931年)に国宝に指定されました。しかし昭和20年(1945年)の仙台空襲により焼失しました。現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979年)に再建されたものですが、建物を彩る彫刻や色彩は当時のものを再現し、瑞鳥、鳳凰と言った様々な極楽を現す彫刻や伊達家の家紋が見事に復元されています。
色鮮やかな細かな彫刻が施されます
政宗に死後も仕えるため殉死した人の供養塔です
伊達政宗が亡くなったときに石田将監ら家臣15名と陪臣5名が殉死を遂げました。瑞鳳殿本殿の左右脇には殉死した家臣の宝篋印塔(供養塔)が置かれ、主君を今もなお守り続けています。
感仙殿・善応殿・妙雲界廟
経ヶ峯には二代藩主忠宗の霊廟である感仙殿と三代藩主綱宗の霊廟である善応殿が並んで建立されています。その奥には妙雲界廟として霊廟ではなく墓碑として九代藩主周宗、十一代藩主斉義とその妻である芝姫の墓が整備されています。
感仙殿・善応殿・妙雲界廟の入口です
二代藩主忠宗の霊廟で瑞鳳殿よりは質素な造りです
二代藩主忠宗の霊廟である感仙殿は寛文4年(1664年)に四代藩主綱村の時代に創建されました。また、三代藩主綱宗の霊廟である善応殿は享保元年(1716年)に六代藩主吉村の時代に創建されました。どちらも昭和20年(1945年)の仙台空襲により焼失し、昭和60年(1985年)に再建されています。
三代藩主綱宗の霊廟で感仙殿と似ています
九代藩主周宗と十一代藩主夫妻の墓碑があります
四代藩主伊達綱村以降歴代の墓所は綱村の命により、廟建築を廃し一定規格の板石塔婆(墓碑)のみとなりました。さらに五代藩主吉村以降からは夫妻の墓は並列されました。恐らく綱村の時代は伊達騒動や鹽竈神社などの整備などで財政が悪化したことに伴う措置だと思います。この方針に倣い九代藩主周宗と十一代藩主斉義と芝姫(あつひめ)夫妻の墓がある妙雲界廟は墓碑の形態で整備されています。
その他供養塔
幼くして亡くなられた藩主の子供たちを埋葬した御子様御廟など伊達家ゆかりの墓所があります。また戊辰戦争や西南の役で亡くなった旧藩士を悼むために戊辰戦争殉難者弔魂碑や西南戦争殉難者の碑も建立されています。
公子公女の墓所が整備されています
戊辰戦争で亡くなった旧藩士を弔うため建てられました
瑞鳳殿の麓には瑞鳳寺があります。瑞鳳寺は寛永14年(1637年)に二代藩主伊達忠宗が仏前に花や香を供えるための寺院として香華院を創建したことに始まります。明治初期の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、大正15年に復興されました。この寺院には鹿児島県人墓があります。
瑞鳳殿に花や香を供えるために建てられました
西南戦争で投降して宮城県の事業を行った人の墓です
明治10年(1877年)の西南戦争に従軍し戦後官軍に投降した西郷軍は国事犯として全国の監獄署に護送されました。宮城県監獄署には305人が収容され宮城県内の開墾作業や築港工事に従事して明治初期の宮城県の開発に貢献しました。このうちの13人が獄中で亡くなり瑞鳳寺に葬られました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒980-0814 宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2
- アクセス
- 仙台駅からバス「瑞鳳殿前」下車から徒歩10分
- 営業時間
- 9:00〜16:50
- 料金
- 570円
- 地図