陸奥国分寺跡

陸奥国分寺跡は、天平13年(741年)に聖武天皇の勅願により全国に建立された国分寺の1つで最も北にある国分寺です。江戸時代に松尾芭蕉も訪れています。陸奥国分寺講堂跡には慶長12年(1607年)に伊達政宗が創建した国指定有形文化財の薬師堂があり、境内に残る礎石や基壇を含め国の史跡に指定されています。
陸奥国分寺跡の概要
陸奥国分寺の中心伽藍は約242メートル四方の敷地でした。南から南大門、中門、中門と金堂を結ぶ回廊、金堂、講堂、僧坊などの建物があり、金堂の東側には七重塔がありました。貞観11年(869年)に貞観地震で被害を受け、貞観15年(873年)に五大菩薩像が造られました。承平4年(934年)には七重塔が落雷で焼失した記録が残されています。
仁王門から金堂跡に向かいます
仁王門を抜けた中門跡には礎石が残ります
平安時代後期には奥州藤原氏の庇護を受け、運慶が彫刻した十二神将が奉納されています。文治5年に発生した奥州合戦で陸奥国分寺の近くにある鞭楯(榴岡)に藤原泰衡が神を構えたことから戦火に見舞われ、本尊の薬師如来と十二神将は難を逃れましたが堂宇の多くが焼失しました。
陸奥国府が形骸化したあとに陸奥国の留守職を務めた留守氏、鎌倉時代に国分壮に入部した国分胤通の末裔が庇護しましたが、広大な境内を維持することができず次第に衰退していきます。観応2年(1351年)には奥州を旅した僧宗久は「草堂一つほか何もなし」と記すほど衰退しました。
飛鳥・奈良時代の国分寺復元模型です
金堂跡には礎石が残り奥には薬師堂が見えます
江戸時代に入ると仙台藩主伊達家の庇護を受け、伊達政宗の命により慶長10年(1605年)から慶長12年(1607年)ににかけて堂宇が再建が行われ薬師堂などが建立されました。その後も国分寺額頭は御一門格と最高の格式を得て、寛永6年には鐘楼が造営され、延享2年には六代藩主伊達宗村が准胝観音堂を造営するなど再興されています。
陸奥国分寺跡の建造物
陸奥国分寺には江戸時代の建造物が残ります。入口にあたる仁王門は、慶長12年(1607年)に伊達政宗により造営され平成19年(2007年)に修復されました。仁王門に安置される密迹金剛像と那羅延金剛像の2体の金剛力士像は平安末期の作品とされており、これらは宮城県の文化財に指定されています。
八脚茅葺の建物です
入母屋造りの鉄板葺の鐘楼です
鐘撞堂(鐘楼)は伊達政宗が寛永6年(1629年)に造営した仙台市登録有形文化財の建物です。鐘撞堂と同じ年に鋳造させた梵鐘が納められていましたが太平洋戦争で軍に供出され残されていません。現在の梵鐘は昭和42年(1967年)に鋳造されたものが設置されています。
薬師堂は戦国時代に地元の領主国分盛重により小規模な薬師堂が建てられたのが始まりで、慶長12年(1607年)に伊達政宗が泉州出身の駿河宗次郎を棟梁として旧陸奥国分寺講堂跡に薬師堂を再建しました。堂内には秘仏の薬師如来像が安置され、須弥壇には日光・月光菩薩が安置されています。明治36年(1903年)に国の重要文化財に指定されました。
国の重要文化財に指定されています
仙台市登録有形文化財の朱塗りの建物です
准胝観音堂は仙台藩五代藩主伊達吉村夫人・長松院により准胝観音が寄進されたことを受け、延享2年(1745年)に仙台藩六代藩主伊達宗村により造営された仙台市登録有形文化財の堂宇です。朱色が映えていて江戸時代に建造された歴史を感じないほど眩いです。
陸奥国分尼寺跡
陸奥国分尼寺は、聖武天皇の詔で日本全国に建立された国分尼寺の一つで天平13年(741年)に創建しました。正式には国分寺が「金光明四天王護国之寺」に対して国分尼寺が「法華滅罪之寺」と呼ばれます。この陸奥国分尼寺跡から多数の布目瓦が出土しています。
建物などは無い更地です
国分尼寺で和賀忠親は自害しました
陸奥国分尼寺跡の隣にある現在の国分尼寺には慶長6年(1602年)に国分尼寺で自決した和賀郡領主の和賀忠親の墓が残ります。和賀忠親は陸奥国和賀郡を治める国人でしたが、小田原討伐に参陣しなかったことで豊臣秀吉から改易され伊達政宗を頼りました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは旧領を回復するために岩崎一揆を起こし和賀郡を治めていた南部利直が支配する花巻城に攻め込みますが、北信愛と南部利直の反撃を受けて敗退しました。一揆の報を受けた徳川家康は和賀忠親に召喚を命じますが、護送の途中に国分尼寺で近臣とともに自害しました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒984-0047 宮城県仙台市若林区木ノ下2丁目5-1
- アクセス
- 地下鉄東西線「薬師堂駅」から徒歩5分
- 営業時間
- 無休
- 料金
- 無料
- 地図