多賀城跡
多賀城は神亀元年(724年)に大野東人により創建され陸奥国府と鎮守府が置かれました。約900メートル四方という広大な城内の中央には重要な政務や儀式を行う政庁があり、平城宮跡(奈良県)、太宰府跡(福岡県)とともに日本三大史跡に数えられています。大正11年(1922年)に国の史跡に指定され、昭和41年(1966年)に国の特別史跡に指定されています。
多賀城の役割
国の特別史跡に指定されている多賀城は、奈良県の平城宮跡、福岡県の太宰府跡と並び日本三大史跡に数えられています。平安時代の多賀城は東北地方の政治・文化・軍事の中心として古代都市が広がっていました。
和銅3年(710年)に現在の奈良県に平城京ができます。奈良時代と呼ばれるこの時代は日本は60余りの国に分かれており、東北地方は太平洋側の陸奥国と日本海側の出羽国がありました。大野東人が神亀元年(724年)に現在の宮城県多賀城市に創建した多賀城は、こうした陸奥国と出羽国を抑える拠点でした。
上空からは建物の配置が分かります(案内板より)
政庁正殿を中心に建物が配置されていました
東北地方の北部には蝦夷と呼ばれる人々が住んでおり、蝦夷を支配するための軍事的な役割もありました。多賀城は政務や儀式などを行う重要な役割がある政庁を中心に、東西、南北ともに約860メートルの敷地にあり、周囲は高さ5メートルほどの土を槌固めた築地塀で囲まれていました。
多賀城は11世紀の前九年の役、後三年の役までは東北地方の中心として機能していました。後三年の役のあとの東北は奥州藤原氏の統治によりしばらく平穏な時代が続き、陸奥国国府の多賀城もその役割を終え10世紀以降はほとんど機能していなかったと考えられています。
前九年の役と後三年の役
11世紀の東北には陸奥国には安倍氏がおり、出羽には清原氏がありました。陸奥国の安倍頼良(安倍頼時)は朝廷への貢租を断ったため陸奥国国司の藤原登任が討伐に向かい前九年の役が起こります。永承6年(1051年)に藤原登任は鬼切部の戦いで安倍氏と交戦しますがこれに敗北したため、代わって陸奥国国司に源頼義が任命されます。
恩赦により一時安倍氏と朝廷の関係は改善されますが、源頼義配下の藤原光貞と元貞が夜討ちに遭い、これが安倍氏の仕業となり源頼義は安倍氏討伐に多賀城から出陣することになります。源頼義は味方の平永衡をスパイ容疑で殺害すると、藤原経清は妻が安倍頼良の娘であり平永衡と同じ境遇にあった安倍頼良方に寝返ることになります。なお、藤原経清の子が奥州藤原三代の開祖・藤原清衡です。
戦いは一進一退でしたが、天喜5年(1057年)に源頼義は安倍富忠を調略して味方に引き込むことに成功します。安倍頼良は安倍富忠の寝返りを思いとどまらせようと津軽に向かいますが、伏兵の攻撃を受け鳥海柵で死去し、息子の阿部貞任が継ぐことになります。源頼義は清原氏を抱き込み攻撃し、安倍氏は滅びました。
多賀城を中心として北に勢力が延びます(案内板より)
雁の群れから敵の伏兵を見破りました(Wikipediaより)
前九年の役が終わった20年後、奥州で勢力を伸ばした清原真衡は、かねてより意見が合わなかった叔父の吉彦秀武と合戦となります。しかし清原真衡が病没すると一反戦いは収束し源義家の仲裁により義理の兄弟にあたる清原家衡と藤原清衡が分割することになります。
しかし清原家の清原家衡と安倍家の藤原清衡は相いれず、後三年の役が発生します。清原家衡は藤原清衡を襲撃し命からがら逃げて源義家を頼り、源義家・藤原清衡と清原家衡の合戦が始まります。清原家衡は堅牢な金沢柵で徹底抗戦しますが、源頼義方は日本で初めて兵糧攻めを行いこれに勝利し家衡は討ち取られました。これにより清原家の土地を藤原氏が治め、藤原清衡は奥州藤原の祖となりました。
多賀城碑覆屋
多賀城跡には平成10年に国の重要文化財に指定された多賀城碑があります。多賀城碑は多胡碑(群馬県)、那須国造碑(栃木県)とともに日本三大石碑に数えられます。江戸時代の初めに発見された高さ2メートルの多賀城碑は壺の碑とも呼ばれ、歌枕「つぼのいしぶみ」として多くの和歌に詠みこまれました。
仙台伊達藩が保護を始めました
多賀城の歴史などが記されています
多賀城碑は、天平宝字6年(762年)に藤原朝狩により多賀城が建て替えられたことを記念して作られたものだと考えられています。多賀城から都までの距離などが記されるほか、大野東人が多賀城を建てたなどが記されています。この石碑に強い関心を寄せた松尾芭蕉は、奥の細道に「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪もおちるばかり也」とこの石碑を見て涙を流したことを記しています。
多賀城碑は覆屋で保護されていますが、江戸時代に野ざらしの状態で発見された多賀城碑を水戸光圀が覆屋を作って保護するよう命令を出し、仙台伊達藩が覆屋を建てて保護しました。現在の覆屋は明治時代に建て替えられたものです。
政庁正殿と多賀城南門
多賀城の入口にあたる南門は令和6年(2024年)の復元を目指して工事が進められています。南門から政庁正殿まで約300メートルある政庁南大路が一直線に延びており、かつて征夷大将軍・坂上田村麻呂や八幡太郎・源義家が通ったかもしれません。
2024年の完成を目指しています
約300メートルある大路です
政庁は政務や儀式を行う最も重要な場所でした。政庁の周囲は約100メートルの築地塀で囲まれており、中心には赤が鮮やかな二層建ての正殿が置かれ、左右には脇殿、正面には南門がありました。これらの建物に囲まれた広場が儀式を行う重要な場所でした。
朱色の建物がありました
正殿の礎石が残されています
政庁正殿は何度か建て直されています。その理由の一つに貞観地震で大変な被害を受けたことが挙げられます。貞観11年(869年)に陸奥国東方沖(日本海溝付近)を震源とする貞観地震が起きました。日本三代実録には、津波は城下まで水浸しにして千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産もほとんど何も残らなかったと記されています。
多賀城廃寺跡
多賀城は政庁などの施設のほか、金堂、三重塔、講堂が建てられていたと考えられる多賀城に付属する寺院がありました。この寺院は多賀城廃寺跡と呼ばれていますが、記録が無いため正式な名称は分かっていません。
廃寺の基礎部分です
礎石が残されています(案内板より)
多賀城廃寺から2キロほど離れた山王遺跡からは観音寺と書かれた土器が見つかっています。太宰府には付属寺院である観世音寺があり、これと建て方が似ていることから、多賀城廃寺は観音寺と呼ばれていた可能性があります。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒985-0864 宮城県多賀城市市川
- アクセス
- JR国府多賀城駅から徒歩15分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図