瑞巌寺
瑞巌寺は仙台藩初代藩主・伊達政宗が慶長14年(1609年)に創建した寺院です。仏間・文王の間・上段の間・上々段の間・鷹の間・松の間・菊の間・墨絵の間・羅漢の間の十室から成る大規模な建造物で明治36年(1903年)に重要文化財に指定され、昭和28年(1953)に本堂(附属御成玄関)が、昭和34年(1959年)には庫裡と本堂をつなぐ廊下が国宝に指定されています。
瑞巌寺の創建
瑞巌寺は、正式名称を松島青龍山瑞巌円福禅寺という臨済宗妙心寺派の寺院で、東北一の禅寺と言われています。古くから奥州の霊場と呼ばれていた松島の中心となる寺院です。瑞巌寺は岩手県平泉の中尊寺、毛越寺、山形県山寺の立石寺とともに慈覚大師円仁によって創建された四つの寺院「奥州の四寺回廊」の一つに数えられます。
天嶺性空禅師による「桑海禅林」が掲げられます
法身性西禅師と北条時頼が出会ったところと言われます
瑞巌寺は天長5年(828年)に比叡山延暦寺第3代座主・慈覚大師円仁により創建された延福寺が始まりで、平泉を拠点として東北一帯を支配した奥州藤原氏も延福寺を保護しましたが、鎌倉時代に奥州藤原氏が倒れると鎌倉幕府執権・北条時頼が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗し、延福寺から円福寺に名称が変更となりました。
台所の役割を担う建物です
絢爛豪華な部屋がある大規模な建造物です
戦国時代になると荒廃していきますが、慶長9年(1604年)に伊達政宗が伊達家の菩提寺とすると自ら縄張りを設計して5年かけて慶長14年(1609年)に瑞巌寺に造り直しました。慶長13年(1608年)に鋳造された大鐘に「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」という一文があり、円福寺から瑞巌寺に名称が変更となりました。
天皇、皇族、藩主専用の門です
昭和31年(1956年)に国重要文化財に指定されています
瑞巌寺は明治9年に明治天皇が東北巡幸の際に実際に宿泊されたところでもあります。天皇、皇族、藩主が使用する御成門と、その他の者が利用する中門が残されており、いずれも昭和31年(1956)に国重要文化財に指定されています。
なお、瑞巌寺の本堂、庫裡などの建造物は、明治36年(1903年)に重要文化財に指定され、昭和28年(1953)に本堂(附属御成玄関)が、昭和34年(1959年)には庫裡と本堂をつなぐ廊下が国宝に指定されています。
瑞巌寺本堂の内部
瑞巌寺の本堂や庫裡の内部は残念ながら撮影禁止になります。外観は質素な造りですが、内部は豪華絢爛な部屋内装で襖絵や欄間などは煌びやかな絵画が施されています。見学した部屋を記録に残しておきます。
- 孔雀の間
- 襖絵には孔雀が描かれるほか、右手から反時計回りに雪、梅、紅葉と日本の四季が描かれています。奥にある仏間には聖観世音菩薩が祀られ、瑞巌寺の歴代和尚の木像や位牌、伊達家歴代藩主の位牌が安置されています。
- 文王の間
- 伊達家一門の控室として使われていた部屋で、中国に周を建国する基礎を築いた文王の名が冠せられます。文王は太公望呂尚の補佐により善政を敷いたことから、伊達政宗を文王、政宗の師匠・虎哉宗乙禅師を太公望呂尚になぞらえています。
- 上段の間
- 文王の間の奥にある上段の間は藩主の控室として使われました。伊達政宗甲冑像の後にある火頭窓(花頭窓)から光が差し込む造りで、障壁に描かれる梅、竹、牡丹は、気品、清爽、富貴を意味します。
- 上々段の間
- 上段の間の横にある藩主よりも一段高い部屋は天皇や皇族を招くための部屋です。明治9年に明治天皇が東北巡幸の際に使われました。障壁には椿が描かれ天皇家の末永い繁栄を祈念しています。
- 羅漢の間
- 伊達政宗が亡くなったときに20名が殉死し、2代目忠宗が亡くなった際には16名が殉死しています。その殉死した方の位牌が祀られている部屋がです。
- 墨絵の間
- 住職たちが控室として使いました。禅宗の和尚の力量を現す例えとして龍と虎が描かれた龍虎図があり、その右手には寒山(文殊菩薩)・拾得(普賢菩薩)の二人や猪頭和尚が描かれています。
- 菊の間
- 典医(医師)の控室として使われました。菊は薬草として使われていたため、白、赤、黄の菊が描かれています。松の間は仙台藩茶道衆の控室として使われました。
- 鷹の間(礼の間)
- 伊達家の重臣が控室として使用された部屋です。鷹を通して武士の戒めが描かれています。
杉並木と津波被害
瑞巌寺のかつての参道は杉並木で薄暗くい鬱蒼とした参道でしたが、平成23年(2011年)に発生した東日本大震災の津波が瑞巌寺参道の半分ほどまで到達しました。およそ千本ほどの杉がありましたが、塩害により立ち枯れを起こし倒壊の危険があるため約300本ほどが伐採されました。
空が開けて明るい参道です
参道のおよそ半分まで津波が到達しました
東日本大震災では瑞巌寺の燈籠が倒壊するなどの被害がありましたが、けが人はなく、地元の方など300人の人たちが避難する場所になりました。参道のおよそ半分まで津波が押し寄せ、その地点には津波到達地点として看板が設置されています。参道の津波到達地点までの杉の木は立ち枯れによる倒木を防ぐため伐採されました。かつて鬱蒼としていた杉並木は空が開けて明るい参道に変わりました。
瑞巌寺の洞窟遺跡群
瑞巌寺の参道右側の岩壁にはたくさんの磨岩仏などの供養塔や彫り物があります。松島は奥州の高野と言われる霊場であり、岩壁を切り抜いた洞窟では修行僧が修行したほか、納骨や供養などで使われたと言われています。現存する最も古い供養塔は寛永13年(1636年)に伊達政宗に殉死した佐藤吉信のものです。
奥州の高野と言われた霊場です
ウナギの一大産地である松島らしく鰻の供養塔です
松島は古くから霊場として知られていたため、供養者には岩手や山形などの県外の人物も認められます。また、江戸時代に鰻の一大産地であった松島らしく、人物以外にも鰻を供養する鰻塚が建てられています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒981-0213 宮城県宮城郡松島町松島字町内91
- アクセス
- 松島海岸駅から徒歩5分
- 営業時間
- 8:30~16:00(季節により異なります)
- 料金
- 700円
- 地図