千秋公園(久保田城跡)

千秋公園は久保田藩20万石の佐竹氏の居城である久保田城跡です。初代秋田藩主佐竹義宣が自然の台地を使用して築造しました。廃城になると造園家の長岡安平が作庭して千秋公園として整備されました。春は桜とツツジの名所で初夏は堀のハスが咲き、秋は紅葉など四季折々の風景を楽しむことができます。
秋田藩主佐竹氏
前九年合戦において陸奥国の有力豪族安倍氏を滅ぼした源頼義には3人の子があり、長男の八幡太郎義家、次男の賀茂次郎義綱、三男の新羅三郎義光がいました。三男の源義光は後三年合戦により東国に下向して常陸国を拠点として義光流源氏の基礎を築きました。この家系が佐竹氏であり、他にも武田氏や南部氏などの戦国時代に名を馳せた家もあります。義光の孫である源昌義は久慈郡佐竹郷に本拠を移し佐竹昌義と名乗りました。南北朝時代には佐竹貞義は足利尊氏に従い佐竹氏の勢力を大きく飛躍させました。
本丸跡には多くの館が建ち並んでいました
秋田藩十二代藩主で最後の藩主として明治を迎えました
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めでは石田三成の忍城攻めに加わりました。しかし関ヶ原の戦いでは東軍の徳川家康に対して消極的な姿勢を示したため、戦後の処理で常陸54万石から秋田20万石への減封のうえ転封させられます。以来、久保田藩は幕末まで佐竹氏が務め、最後の藩主佐竹義尭は奥羽越列藩同盟を脱退して新政府軍に味方したため旧幕府軍から攻撃されるなど激動の時代を過ごし、明治時代に藩知事を経て侯爵となりました。
久保田城
久保田城は、慶長9年(1604年)に佐竹義宣により築かれた平山城です。常陸国54万石を治めていた佐竹氏は慶長7年(1602)年に出羽秋田20万石に転封となり久保田城を築城して秋田を治めました。秋田に転封となった佐竹義宣は水戸から秋田に左遷されたと思い、徳川家康に遠慮して石垣ではなく土塁の土造りとして天守も造りませんでした。
土造りの城です
平成13年(2001年)に復元されました
明治13年(1880年)の大火により城内の建物がほぼ全焼したため、藩政時代から唯一残る久保田城の建造物は御物頭御番所しかありません。本丸の正門にあたる表門は木造二階建の櫓門で平成13年(2001年)に復元されました。この正門前にあるのが御物頭御番所になります。御物頭御番所は二ノ門である長坂門の開閉と城下の警備にあたる物頭の詰所でした。
唯一残る藩政時代の建造物です
8つあった隅櫓のうち復元された一つです
久保田城は西に旭川が流れる標高45メートルの丘陵に築かれました。久保田城には8つの隅櫓がありましたが、そのうちの一つを平成元年(1989年)に秋田市制百周年を記念して復元されました。1階は佐竹氏の歴史が展示されており、2階は展望台として秋田市内を一望することができます。
千秋公園
千秋公園は明治から大正時代にかけて活躍した造園家の長岡安平が明治29年(1896年)に作庭しました。幕末から明治時代の漢学者である久保田藩大館城代西家家老の狩野良知が秋田が長く久しく続いて欲しい願いを込めて、秋田の秋と長久の意味の千を使用して明治34年(1901年)に千秋公園と名付けられました。
大賀ハスの名所として知られます
夜になると大賀ハスがライトアップされます
千秋公園の庭園は胡月池を中心とした池泉回遊式になります。胡月池や大手門の濠は二千年前の大賀ハスの名所として知られており、大手門の濠は夜になるとライトアップされます。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒010-0876 秋田県秋田市千秋公園1-1
- アクセス
- JR秋田駅より徒歩10分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図