高清水公園(秋田城跡)

秋田城跡は奈良時代から平安時代にわたり東北地方の日本海側(出羽国)に置かれた大規模な地方官庁の遺跡です。天平5年(733年)に秋田村高清水岡に置かれた当初は出羽柵と呼ばれましたが、天平宝字4年(760年)ごろに秋田城と呼ばれるようになりました。奈良時代には出羽国の政治をおこなう国府が置かれ津軽(青森)や渡嶋(北海道)のほか大陸の渤海国(中国東北部)など北方交易の拠点としても重要な役割を果していたと考えられています。高清水公園は秋田城跡の発掘調査で発見された遺構を現地に復元しています。
秋田城の役割と変遷
奈良時代から平安時代の東北地方は平城京とは違う言葉や文化がある蝦夷と呼ばれる人々が暮らしていました。そこに古代国家の律令支配を広げる拠点として古代城柵が造られ、秋田高清水岡にも壮大な城が現れました。出羽柵と呼ばれた最も北にある大規模な古代城柵は秋田城の始めとなります。
秋田市内を見下ろす丘に建てられます
政庁は瓦屋根の築地塀で囲まれています
秋田城はに華やかな都である平城京をモデルに造られた厳かで美しい城でした。周囲を囲む城壁は格式ある瓦屋根の築地塀で城の中心には正殿と脇殿に広場からなる政庁が作られました。政庁の中心建物である正殿は白壁の床に古代煉瓦の塼が敷き詰められ中国様式を取り入れた施設で律令国家の威信を示していました。
建物の数は変わりませんが豪華になります
政庁内部の建物は変わりませんが外にも建物ができます
政庁は出羽柵の創建とともに中心施設として造られておよそ第6期の変遷がありました。特に大きな変化は第3期、第5期、第6期に認められます。
秋田城の発展と衰退
最北の古代城柵である秋田城が担ったのは主に都から遠く離れた地域を治める行政機能と蝦夷に対する軍事機能、また渡嶋をはじめとする北方の蝦夷から朝廷への貢物を受け取る朝貢とその代わりに地位や品物を与える饗給という機能もありました。さらに海の向こう大陸の渤海国との外交使節としての役割も果たしていました。
政庁に入るための門です
最も重要な建物の礎石だけが残されています
秋田城は北方世界や大陸に開かれた古代日本の北の窓口でした。特に政庁は秋田城の中で最も重要な区画で中心の正殿やその前面の広場では出羽国の政務を執り行い、定期的に貢物を持参する蝦夷の人たちを迎え入れ、位階や布を与えたり宴を催しました。また渤海国などの外国からの使節を迎えての儀式も行われていました。
平安時代に造られた井戸です
外国からの使節をもてなす設備が整います
奈良の都と同様の儀式がいくつも行われ、様々な民族や文化が交わる歴史の舞台となりました。平安時代には元慶2年(878年)の蝦夷の反乱(元慶の乱)を経て10世紀の中頃まで機能しましたが、10世紀後半には古代城柵としての機能は失いました。このように古代において重要な役割を担った秋田城は江戸時代以降に城内に羽州街道が通り明治天皇が行幸に合わせた大規模な道路の切通が政庁西側で行われるなど、何百年もの長い間に歴史に埋もれ人々に忘れ去られてしまいました。
古代城柵から現代まで
秋田城は10世紀後半に古代城柵として役目を終えますが、平安時代中期に出羽城介となり、鎌倉時代以降は北方を鎮護する秋田城介と呼ばれるようになりました。秋田城介は武士の名誉ある職となり織田信長の嫡男織田信忠なども秋田城介を名乗りました。
門の周囲は瓦屋根の築地塀が囲みます
儀式で使われた人形、土器などを流す神聖な場でした
秋田城跡は明治時代から調査研究が進み歴史的な重要性が認められたため昭和14年(1939年)に国の史跡に指定されました。昭和47年(1972年)から本格的な調査が始まると当時のものが多数出土しました。平成元年(1989年)には遺跡を復元する史跡公園の整備が始まり、令和4年(2023年)には政庁西門や城内西大路の復元を兼ねた資料館と史跡公園を結ぶ連絡橋が開通しています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒011-0907 秋田県秋田市寺内大畑
- アクセス
- JR秋田駅よりバス20分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図