秋田市の偉人墓

平田篤胤墓
平田篤胤は安永5年(1776年)に出羽国秋田佐竹藩の藩士の子として生まれました。文化元年(1804年)に真菅乃舎を開業して本居宣長の学業を学び『新鬼神論』『古道大意』『俗神道大意』などを書きますが、激しい儒教批判と尊王思想のため幕府の忌むところとなり天保14年(1843年)に秋田へ追放され病死しました。
国学四大人に数えられる平田篤胤の墓です
異界などの神秘的なものへの関心が高い国学者でした
平田篤胤は荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人に数えられ、その国学の思想は庶民にも広く影響を及ぼしました。異界など神秘的なものへの関心が特に高く研究を行ったことでも知られます。平田篤胤の天皇中心の政治に戻す思想は討幕運動へと発展し、新しい天皇中心の明治時代へと繋がりました。
正洞院墓
正洞院は下野国(栃木県)烏山城主那須資胤の三女に生まれました。この周囲では南の北条氏と北の伊達氏が勢力を拡大していたため、那須家と佐竹家の関係を強固にするための政略結婚として、のちに久保田藩初代藩主になる佐竹義宣の正室になりました。正洞院は24歳で謎の死を遂げますが、弓や剣の稽古を疎かにし軟弱に流れる佐竹義宣を戒めるために自害したとも伝えられます。
廃仏毀釈で廃寺になりました
那須家から佐竹家に嫁いできました
佐竹義宣は常陸国(茨城県常陸太田市)の耕山寺に墓を建てて菩提を弔いましたが、のちに移封先の秋田に墓所を移し江戸と久保田の両地に菩提寺として正洞院を建立しました。正洞院は明治維新後に廃寺となり現在は正洞院の墓碑が残ります。
- 住所
- 〒010-0851 秋田県秋田市手形大沢21−1
- アクセス
- JR秋田駅よりバスで20分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図
菅江真澄墓
菅江真澄は本名を白井秀雄という江戸時代後期の紀行家で、宝暦4年(1754年)に三河国渥美郡で生まれました。菅江真澄は信濃、越後、出羽、陸奥、蝦夷など諸国を歴訪して、土地の歴史や文化、人々のくらしを絵と文章で詳しく記録した菅江真澄遊覧記を執筆しました。
仙北郡角館で客死し秋田に運ばれました
唯一の弟子鳥屋長秋による挽歌が彫られます
菅江真澄は48歳のときに2回目の秋田に入り、生涯の28年間を秋田で過ごしました。日記や地誌、写生、随筆で記録を残した箇所は、秋田県69市町村のうち68市町村まで及んでいます。画集の勝地臨毫では秋田領内の特徴を村落や山谷などの絵図入りで紹介しています。久保田城の真下を流れる旭川を命名したのも菅江真澄で、旭滝から流れ落ちる水源を思い浮かべて名付けました。菅江真澄の秋田での足跡は菅江真澄の道として整備され主要なポイントには真澄の歌が刻まれる標柱が建てられています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒011-0908 秋田県秋田市寺内大小路137
- アクセス
- JR秋田駅よりバスで15分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図