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檜山安東氏城館跡

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、檜山城

檜山安東氏は、十三湊を拠点としていた安東氏が蝦夷地に撤退したあと檜山城を築造して本拠としました。さらに大館と茶臼館を築き領地の守りを固めています。これらの檜山城とその支城の大館と茶臼館は檜山安東氏城館跡として、昭和55年(1980年)に国指定史跡に登録されました。

檜山安東氏

安東氏は鎌倉時代に倭寇の海賊的な船団を率いて蝦夷地を始めとして大陸とも交易を行う有力な豪族でした。現在の青森県藤崎町を拠点としていましたが、十三湊(現在の五所川原)を拠点とする下国家と青森市を拠点とする後潟、そして出羽国土崎湊を拠点とする湊家上国家に分裂します。宗家は十三湊安東氏ですが、享徳3年(1454年)に南部氏が十三湊を落として十三湊安東氏は蝦夷に退き、のちに後潟安東氏も蝦夷に渡ります。

茂別館土塁跡

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、茂別館土塁跡安東氏が蝦夷で築いた茂別館の土塁です

檜山城跡

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、檜山城跡蝦夷から檜山に城を築いて本拠地としました

十三湊安東氏は断絶して宗家は滅亡しますが、後潟安東氏は出羽国に戻り秋田県能代市に檜山城を築いて檜山安東氏となります。一方、湊家安東氏は秋田土崎湊に湊城を築城して基盤を整えて湊安東氏を形成します。檜山安東氏は蝦夷管領、日ノ本将軍を称し、湊安東家は秋田城之介を称しました。

檜山城跡

檜山城は、蝦夷から南下に成功した安東政季が康正2年(1456年)頃に築城が開始され、明応4年(1495年)に政季の子安東忠季の時に完成しました。檜山城は檜山安東氏の居城の時期を含め室町時代から江戸時代の初期にかけて長期間使用されました。標高145メートルの山頂から伸びる蹄形の尾根全体を天然の要害とした山城で、近世の郭にみられるような天守閣や石垣はありませんが、曲輪、腰曲輪、堀切などの遺構が残されています。

檜山城跡

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、檜山城跡本丸には天守などはありませんでした

檜山城跡

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、檜山城跡山城だけあり尾根筋に堀切が残されています

天正17年(1589年)に檜山安東実季は湊安東道季の内紛により檜山城が攻撃されて籠城戦が行われました。安東実季は湊安東氏の反乱を抑えると慶長3年(1598年)に湊城を本拠地として檜山城は代官地となりました。関ヶ原の戦いの戦後処理で安東氏は秋田氏と改称して常陸宍戸に転封となると、佐竹氏が秋田に入部して佐竹氏家臣・多賀谷宣家が檜山城の城代となりましたが、徳川幕府の一国一城令により檜山城は廃城となりました。

大館跡

大館は檜山城の北西にある標高40メートル前後の約27万平方メートルという丘陵に造営されました。檜山城の支城の一つと考えられていますが、平安時代の元慶2年(878年)に蝦夷が大和朝廷に対して反乱を起こした元慶の乱の際に大和朝廷が築いた野代営との説もあります。

大館跡

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、大館跡夏場は藪で上がることが困難です

大館跡近くの松並木

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、大館跡_松並木檜山城の周囲には松並木があります

昭和時代の発掘調査では柵を二重三重に配して守りを固め多数の住居跡が見つかりました。発掘調査では平安時代末期の竪穴住居跡が確認されており、これが能代営の跡ではないかとも言われますが確認はできていないようです。

茶臼館跡

檜山城の西に位置する標高50メートルほどの丘陵に建てられた茶臼館は檜山城の支城の一つと考えられており、安東家家臣大高康澄の館跡という伝承があります。羽州街道に面しており台地状の曲輪を区画する堀切や腰曲輪が残ります。

茶臼館跡

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、茶臼館跡羽州街道から少し中に入ります

茶臼館跡

秋田県能代市の旅行で訪れた観光名所、茶臼館跡丘陵に築造されており夏場は藪が深いです

天正6年(1578年)に南部氏から謀反を起こし独立した大浦為信が陸奥国浪岡城主の北畠顕村を攻め滅ぼしました。このとき北畠顕村は討ち取られたと言われますが、一説では安東愛季を頼り茶臼館に住んだという伝承があります。

まち旅(旅行、観光)の記録

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住所
〒016-0151 秋田県能代市檜山霧山下
アクセス
JR東能代駅からバスで20分
営業時間
24時間
料金
無料
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