飯詰竪穴群と後三年合戦の古戦場

飯詰竪穴群は、縄文時代中期から晩期にかけて営まれていた集落跡で、昭和34年(1959年)に秋田県史跡に指定されています。この遺跡の周辺は後三年の役古戦場跡で西沼で雁が突然列を乱して飛んでいるのを見て源義家が敵の伏兵がいることを察知したと言われます。西沼に架かる雁橋の先には後三年の役をテーマにした平安の風わたる公園が整備されています。
飯詰竪穴群
飯詰竪穴群は、湖畔に囲まれた丘陵にある縄文中期から晩期にかけての集落跡です。大正12年(1923年)に地元の豪農が山本公園を造成中に発見されました。約5メートル×約2メートルの深さ30センチほどの竪穴住居跡は秋田県の縄文時代中期の集落跡の存在を示した重要な遺跡です。
公園の造営中に発見されました
住居跡や土器などが発見されました
土器は破片のみで出土数が数も少なく復元土器はありませんが、打製石斧の出土数は多く128点を数えます。また石匙25点、石鏃8点が発見されています。
後三年の役
かつて蝦夷と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方は7世紀末から次第に大和朝廷の影響が拡大し、岩手郡、志波郡、稗貫郡、和賀郡、江刺郡、胆沢郡の陸奥六郡を新たに支配領域として安倍氏や清原氏が統治しました。11世紀後半になると安倍氏が大和朝廷に反抗して前九年の役が起こり、源頼家は清原武則の協力を得て安倍氏を滅亡させますが、これが火種となり後三年の役が起こります。
東北地方を巡り対立が起こりました
源氏に加担したことで形勢が変わりました
後三年の役で清原氏に受け継がれた陸奥国奥六郡は、清原武則から清原武貞が引き継いで支配しますが、清原武貞は前九年の役で反乱を起こした安倍頼時の娘で安倍氏一門の藤原経清の妻(有加一乃末陪)を妻として、有加一乃末陪の連れ子は清原清衡と名乗りました。武貞と有加一乃末陪の間には清原家衡が産まれます。
清原家衡と清衡の内乱に発展しました
源氏の棟梁としての地位を確立しました
清原武貞の跡を継いだ清原真衡は、異母兄弟の清衡と家衡の関係が悪化します。真衡は清衡・家衡連合軍と戦いこれを破りますが真衡が陣中で急死してしまいました。真衡の領地は源義家が清衡と家衡に分配しましたが、この分配に不満を持った家衡が挙兵し源義家と清衡との対立に発展しました。これにより勝利した清衡は全ての領地を手に入れ、藤原姓となり奥州藤原氏の祖となりました。
平安の風わたる公園
平安の風わたる公園は、後三年の役の古戦場である西沼(大沼)のほとりに広がる公園で、平成3年(1991年)に歴史公園として整備されました。大沼にかかる三連の太鼓橋「雁橋」がシンボルです。
雁が飛ぶ乱れで伏兵を見つけました
東北地方の支配は奥州藤原氏へと変わりました
後三年の役で源義家が金沢柵に進軍していたとき、この付近で上空を一列に並んで飛んでいた雁が列を乱したため伏兵が潜んでいることを知り敵を倒すことができました。この合戦に関わる武将たちのブロンズ像、レリーフ、東北地方の古戦場地図や清原氏と源氏方系図などが展示されています。
- 住所
- 〒019-1234 秋田県仙北郡美郷町飯詰字東西法寺
- アクセス
- 後三年駅から車で5分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図