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大鳥山遺跡

秋田県横手市の旅行で訪れた観光名所、大鳥山遺跡

大鳥井山遺跡は、旧石器時代から縄文時代後期まで営みが行われていました。平安時代後期(11世紀中期頃)からは大鳥井柵として清原氏の居館が設けられました。大鳥井山遺跡は陸奥話記や後三年合戦などの文献と学術的な調査と一致する極めて異例な存在として、平成22年(2010年)に国指定史跡になりました。

縄文時代の大鳥井山遺跡

大鳥井山遺跡は、標高80メートルの大鳥井山と標高72メートルの小吉山の2つ山で構成されています。横手川と杉沢川に挟まれる丘陵であり、縄文時代の狩猟採集の居住地として便利な土地でした。小吉山では竪穴住居跡や石囲炉などが発掘され、小吉山より規模は小さいですが大鳥山西部からも竪穴式住居などが発掘されています。

大鳥井山遺跡

秋田県横手市の旅行で訪れた観光名所、大鳥井山遺跡横手川と杉沢川に挟まれる丘陵にあります

大鳥井山遺跡

秋田県横手市の旅行で訪れた観光名所、大鳥井山遺跡旧石器時代から弥生時代の遺物が発見されています

大鳥井山遺跡では旧石器時代の動物解体用の石器が出土しています。氷河期に陸続きだったユーラシア大陸からナウマンゾウやオオツノジカ、マンモスなどの獲物を追って来ました。縄文時代中期から後期の住居、食糧を貯蔵したフラスコ状土坑、土器や石器も発掘されています。また弥生時代の石器や土器も出土していて長い間人々が生活を営んでいました。

平安時代の大鳥井山遺跡

稲作が伝わり人びとが平野部に移り住むと平安時代の後期には地方豪族の居城として再び利用されました。大鳥井柵は奥羽一帯を支配する清原光頼と清原頼遠(大鳥居太郎頼遠)の父子により築かれました。一族の内紛に端を発した後三年の役を含む平安時代後半に最も盛んに人間の活動が見られ、横手市の北部にある金沢柵とともに焼失して清原氏が滅亡するまで機能していたと考えられています。

大鳥井山遺跡

秋田県横手市の旅行で訪れた観光名所、大鳥山遺跡大鳥山と小吉山からなる遺跡です

十三塚

秋田県横手市の旅行で訪れた観光名所、大鳥山遺跡_十三塚宗教や信仰的な影響を受けた遺跡も残ります

後三年の役で勝利した藤原清衡の三男である藤原正衡により再び城柵が築かれ関根柵と呼ばれました。台地を二重に巡る土塁や、空堀、建物跡、使用された土器、火災の跡などが残ります。近世になり石棺を埋めた積石墓や十三塚などの宗教や信仰にかかわる造営も行われています。市指定文化財である十三塚は約4メートルの方形の塚を中心に隣あうように円形の塚が並びます。

大鳥井山遺跡の遺構

大鳥井神社がある大鳥井山の標高80メートルの頂上部が主郭と思われる場所で約400平方メートルの人口的に造成された平場には2棟分の掘立柱建物(四面庇建物)2棟と大溝跡2条や柵列跡などが発見されています。主郭までは3重の空堀や土塁があり、麓には大規模な2重の空堀と土塁の遺構があります。

大鳥山遺跡

秋田県横手市の旅行で訪れた観光名所、大鳥山遺跡空堀や土塁が並ぶ遺構が発見されています

大鳥山遺跡

秋田県横手市の旅行で訪れた観光名所、大鳥山遺跡曲輪のような平場が並び防衛能力を高めています

主要な出土品は前九年の役や後三年の役の時代に合致しているため、金沢柵が落城して合戦が終結するまで清原氏の居館として機能していたと考えられています。後三年合戦に勝利した清原清衡が奥州平泉(岩手県平泉町)に本拠を移し居館、政庁とした柳之御所と柵の形状や構成、出土品などにも類似点も多く関係性が伺えますが、それ以降は江戸時代に入るまでほとんど利用されませんでした。

まち旅(旅行、観光)の記録
住所
〒013-0006 秋田県横手市新坂町3−1
アクセス
JR横手駅から徒歩30分
営業時間
24時間
料金
無料
地図