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桂城公園(大館城跡)

秋田県大館市の旅行で訪れた観光名所、桂城公園(大館城跡)

桂城公園は、天正10年(1582年)に浅利勝頼により築かれたと伝わる大館城(桂城)の跡地にある公園です。桂城の名前の由来は、長木川一の渡に桂の大木があったという説、御神木として城内に桂の古木があったという説、この地の文人たちが桂月、桂秋のように桂城と名付けた説があります。

戦国時代の大館城

出羽国比内郡は、甲斐国浅利郷を本拠としていた浅利頼遠が源平合戦の恩賞として比内郡を貰い受けて一族が下向してから比内浅利家が支配しました。戦国時代になると浅利則頼が勢力を拡大して全盛期を築きますが、嫡男浅利則祐が家督を相続すると腹違いの弟浅利勝頼と対立して内乱となります。弟の浅利勝頼は長年の宿敵安東家と結び永禄5年(1562年)に兄浅利則祐を攻めて自害に追い込み家督を継いで安東家に従属します。

安東愛季

秋田県大館市の旅行で訪れた観光名所、桂城公園(大館城跡)北天の斗星と呼ばれました

桂城公園(大館城跡)

秋田県大館市の旅行で訪れた観光名所、桂城公園(大館城跡)戦国時代に浅利氏が築造した城です

やがて浅利勝頼は安東家から独立を目指して津軽家と結んで安東家と交戦するようになります。天正10年(1582年)に浅利勝頼は大館城を築城しますが、この年に安東愛季は和睦と見せかけて浅利勝頼を檜山城に招いて酒宴の席で謀殺しました。大館城には安東家臣の五十目秀兼が入りますが、天正16年(1588年)に五十目氏が南部氏に内応して南部家臣の北信愛が城代となります。その2年後には南部氏の騒動に乗じて秋田氏(安東氏)が再び大館城を奪還し、最終的に秋田氏の支配に落ち着くまで何度も奪い合いが起こりました。

佐竹家と大館城

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起きると、その戦後処理として常陸国佐竹家が出羽国に入り久保田城を築城して支配します。大館城には慶長15年(1610年)に小場義成が檜山城から大館城に移り初代城代となりました。その後、三代義房のときに佐竹姓を許され、六代義村から佐竹西家となります。

内堀

秋田県大館市の旅行で訪れた観光名所、桂城公園(大館城跡)内堀ハスがびっしりと生い茂ります

土塁

秋田県大館市の旅行で訪れた観光名所、桂城公園(大館城跡)土塁東北地方らしく土造りの城です

大館城は元和元年(1615年)の一国一城令では例外として横手城と同じく存続を認められ明治時代を迎えることになりますが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で南部氏が大軍で攻めてきたため、大館城代の佐竹義遵(佐竹大和)は自ら大館城に火を放ち、堀などの遺構を残して全焼しました。

桂城公園の造営

戊辰戦争の戦禍で焼失した大館城の跡地は明治33年(1900年)に学校用地となり、校名を変えながら小学校用地として使用されました。昭和29年(1954年)に桂城小学校が水門町に移転してから桂城公園として整備されました。

大ヤナギ

秋田県大館市の旅行で訪れた観光名所、桂城公園(大館城跡)大ヤナギ桂城公園のシンボルになります

本丸跡

秋田県大館市の旅行で訪れた観光名所、桂城公園(大館城跡)本丸跡公園の中央には噴水が整備されています

公園内には大ヤナギが植えられ本丸跡には噴水が整備されています。公園の南側にある内堀や土塁の遺構が大館城の存在を今に伝えます。

まち旅(旅行、観光)の記録

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住所
〒017-0891  秋田県大館市中城
アクセス
JR大館駅からバスで10分
営業時間
24時間
料金
無料
地図