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脇本城跡

秋田県男鹿市の旅行で訪れた観光名所、脇本城跡

脇本城は日本海に面した男鹿半島の付け根にある山城です。鎌倉時代に津軽地方の豪族であった安東氏は檜山安東氏と湊安東氏に分かれましたが、戦国時代に安東愛季が両家を統一して既存の城を改修して脇本城を築き居城としました。総面積約150ヘクタールある脇本城は東北最大級と言われます。平成16年(2004年)に国の史跡に指定されています。

安東家と安東愛季

安東氏は鎌倉時代に倭寇の海賊的な船団を率いて蝦夷地を始めとして大陸とも交易を行う有力な豪族でした。現在の青森県藤崎町を拠点としていましたが、十三湊(現在の五所川原)を拠点とする下国家と青森市を拠点とする後潟、そして出羽国土崎湊を拠点とする湊家上国家に分裂します。宗家は十三湊安東氏ですが、享徳3年(1454年)に南部氏が十三湊を落として十三湊安東氏は蝦夷に退き、のちに後潟安東氏も蝦夷に渡ります。

十三湊安東氏は断絶して宗家は滅亡しますが、後潟安東氏は出羽国に戻り秋田県能代市に檜山城を築いて檜山安東氏となります。一方、湊家安東氏は秋田土崎湊に湊城を築城して基盤を整えて湊安東氏を形成します。檜山安東氏は蝦夷管領、日ノ本将軍を称し、湊安東家は秋田城之介を称しました。

安東愛季

安東愛季肖像画北天の斗星と呼ばれました

脇本城跡

秋田県男鹿市の旅行で訪れた観光名所、脇本城跡東北地方で最大級の規模を誇る山城です

戦国時代の天文22年(1553年)に檜山安東家の当主になった安東愛季は能代湊の整備拡大を行い交易と津料徴収などで財力を蓄え米代川流域の支配力強化を図りました。さらに檜山安東氏と湊安東氏の統一を図るため弟の安東茂季を後継者がいない湊安東家に送り込み安東家を統一して安東家は最盛期を迎えます。しかし湊家安東氏に不満があり、元亀元年(1570年)に湊城付近の国人が挙兵し第一次湊騒動が起こります。

安東愛季が亡くなり嫡男安東実季が当主になると天正17年(1589年)に従兄弟の安東通季が反乱を起こし第二次湊騒動が起こりました。安東実季は土崎に湊城を築城して秋田に改姓して秋田実季となります。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して慶長7年(1602年)に常陸国宍戸に転封となり、正保2年(1645年)に陸奥国三春藩に移り明治維新を迎えます。

脇本城

脇本城跡は14世紀半ばに築城されたと言われる城で安東愛季が安土桃山時代の天正5年(1577年)に大規模な修復を行い居城としました。総面積約150ヘクタールある城郭は東北最大級の山城です。城の遺構は多数残されており、多くの曲輪、土塁、空堀、井戸跡などのほか虎口と呼ばれる城の入口部などが確認されています。

脇本城

秋田県男鹿市の旅行で訪れた観光名所、脇本城跡内館を中心に曲輪が並びます

脇本城内館跡

秋田県男鹿市の旅行で訪れた観光名所、脇本城跡内館跡大土塁を擁する中心的な内館がありました

脇本城は能代湊と土崎湊の中間にあり安東氏を束ねる格好の土地でした。能代湊は蝦夷地や北方諸国との交易を行い北日本最大の港湾都市となり、土崎湊は出羽国南部や本州との交易を行い日本海側最大の港湾都市として栄えました。交易により得られたラッコ皮や獣皮、干し魚、昆布などは時の権力者である織田信長や豊臣秀吉に献上するなど外交に役立てられました。また脇本城は天下道と呼ばれる秋田方面から船川や北浦方面を結ぶ街道にあり陸と海の交通の要衝を抑えていました。

天下道

秋田県男鹿市の旅行で訪れた観光名所、脇本城の天下道主要な街道が付けられています

脇本城からの展望

秋田県男鹿市の旅行で訪れた観光名所、脇本城からの展望安東氏を支えた土崎湊が眺められます

海上交易を中心に繁栄を極めた安東氏ですが、関ケ原の戦いの配置換えにより慶長7年(1602年)に常陸国に転封となり脇本城は廃城となりました。安東氏はこれまで海を中心として繁栄してきましたが、転封してからは内陸の大名として過ごすことになります。

まち旅(旅行、観光)の記録

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住所
〒010-0342 秋田県男鹿市脇本脇本七沢外
アクセス
JR脇本駅から徒歩で20分
営業時間
24時間
料金
無料
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