石川理紀之助遺跡

明治時代の農村指導者で生涯を貧農救済に捧げた石川理紀之助は山田村(現在の潟上市昭和豊川山田)の地主石川家に婿養子に入り貧困にあえぐ石川家を再建し、その卓越した農業知識を請われ県の農業行政に従事しました。また、村民と山田村経済会を組織して農業の効率的経営を奨め5年で村の借金をすべて返済するなど農業で貢献しました。石川理紀之助遺跡は昭和39年(1964年)に秋田県指定史跡となり農業実験などを行った遺構が残されています。
石川理紀之助
石川理紀之助は幕末に生まれ明治時代から大正時代にかけて農業の発展に生涯をかけ、農村の改革や種苗交換会の創設など数々の業績があります。明治11年(1878年)に談話会と種子交換会を設立し、これらはやがて明治15年(1882年)秋田県種苗交換会に発展して現在も続けられています。
明治政府の農民への厳しい政策により農村が衰退したことを憂い、明治15年(1882年)に石川理紀之助は役人を辞めて故郷山田村に戻ります。窮乏する村民を救うため山田経済会を設立して活動を行い山田村は借金を返済することができます。石川理紀之助の名声は各地に広まり農村救済を依頼され対応しますが、必ずしも石川理紀之助の考え方を理解して実行されるものではありませんでした。こうした状況を受けて、自分が布団の中で寝たままであれば他人は動かない。まずは自分が率先して動いて見せること。という信念「寝ていて人を起こすことなかれ」という訓言が生まれました。
石川理紀之助が晩年の10年間を過ごした庵です
石川理紀之助とその夫人及び子供たちの墓です
石川理紀之助は各地の農村を救済するなかで適地適産があることを知り、明治28年(1895年)に適産調を開始します。地域の実態を調査し経済政策を導き出すための調査で、調査項目は土壌調査から人情、風俗、習慣などあらゆる面に及びました。この事業は明治35年(1902年)まで続き731冊の調査書として取りまとめられました。
この年、前田正名からの依頼により宮崎県北諸県郡谷頭の農業指導を行うことになります。旅費や小遣いの一切を自己負担として同志7人とともに秋田から宮崎を訪れます。宮崎までの長旅は現在のように簡単なものではなく、また現地では方言の違いなどもあり会話もままならない状況から始まりましたが半年で農村を建て直しました。その後も各地の農村を指導して生涯を貧農救済に捧げ、老農あるいは農聖と敬称されるようになりました。
石川理紀之助遺跡
石川理紀之助翁遺跡にある潟上市郷土文化保存伝習館は石川理紀之助の遺著、遺稿、収集物などを展示しており、この裏山に石川理紀之助に関する建造物が残されています。東北地方で農業に勤しんだ石川理紀之助は、寒冷地で積雪があり一毛作という東北地方が常に不作、凶作に苛まれ農民自身が飢えに苦しむことが多いため「一日に一合の米があれば人一人の命を救いうる」という古人の言葉に従って、食料の中から毎日一合分を備荒倉に蓄えて凶作に備えました。
飢饉などに備えて米を蓄えました
蔵書などを火災から守るために建造されました
石川理紀之助は県南地方救荒のため巡行中に草木谷の山居が火災に遭い多くの書籍を失いました。このため明治34年(1901年)に当時はまだ珍しいトタン板を使用した古人堂文庫を建造して火災から守りました。財閥三井報徳会は貴重な書籍などの資料散逸を恐れて昭和12年(1937年)に三井文庫(石川文庫)を建造し、石川理紀之助の約1万冊の蔵書や数千の遺稿、遺著を保存しました。
三井財閥が蔵書などを保管するために建てました
石川理紀之助が孫たちを育てるために置いた建物です
石川理紀之助は明治20年(1887年)に家出した長男民之助が北海道国後島で流行病で亡くなる悲しみがありました。59歳のときには次男老之助が病死し父親を失った幼い孫たちを育てるために草木谷にて使用していた農舎を移築して孫たちを育てた梅廼舎が残されています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒018-1416 秋田県潟上市昭和豊川山田家の上63
- アクセス
- JR大久保駅から徒歩30分
- 営業時間
- 9:00~16:00
- 料金
- 270円
- 地図