払田柵跡

払田柵跡は平安時代始め頃に築かれた城柵遺跡です。奈良から平安時代にかけて東北地方北部や北海道南部の人々は蝦夷と呼ばれており、その蝦夷を支配するために各地に城柵が築かれました。外周およそ3.6キロの範囲に角材を並べた材木塀が築かれ、東西南北に門が置かれました。敷地面積はおよそ88ヘクタールあり城柵遺跡としては最大級の規模を誇ります。
平安時代の東北地方
畿内で大和朝廷による律令国家が成立した奈良時代から平安時代は、東北地方には蝦夷と呼ばれる人たちが住んでいました。大和朝廷は東北地方を支配下に置くために神亀元年(724年)に多賀城を設置して支配領域の拡大に着手します。天平5年(733年)には秋田城が築造され、天平宝字3年(759年)には横手盆地のどこかに雄勝城という拠点を作ります。
蝦夷を支配するために陸奥国に造られました
出羽国に造られ蝦夷や渤海国との交流を行いました
宝亀11年(780年)には宝亀の乱と呼ばれる蝦夷の伊治公呰麻呂が反乱を起こし多賀城が炎上します。延暦8年(789年)には蝦夷の阿弖流為が約2千の兵で朝廷軍5万3千を破りますが、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍として形勢は逆転、延暦20年(801年)にアテルイとモレは降伏し朝廷に連行されて処刑されました。
時代ごとに北に勢力を広げました
東北地方を支配する拠点の一つでした
延暦20年(801年)に文室綿麻呂が出羽権守になると翌年には1,400人の兵士を集めて一気に払田柵を造りました。この頃は延暦21年(802年)に坂上田村麻呂が胆沢城を造営し、翌年に志波城を築いて陸奥国の支配領域を拡大していきました。
払田柵跡の概要
払田柵は律令国家が東北地方を支配する拠点の一つで日本海側の秋田城と太平洋側の胆沢城と志波城を結ぶ横手盆地の重要基地として機能していました。仙北地方の平野部にある真山・長森の2つの小丘陵を取り囲むように造られましたが、名称は現在の地名に因んで命名されたもので、当時の呼び名は分かりません。昭和5年(1930年)に嘉祥二年正月十日と記された木簡が発見されたことで有名になりました。
山2つを外柵で囲んでいました
蝦夷の侵略を防ぎ交流を続けた拠点でした
払田柵は蝦夷に対して威厳を示す巨大な城柵で蝦夷政策で3つの役割が課されました。1つは蝦夷を歓待する饗宴を行い蝦夷に布や米などを下賜する饗給で、2つ目が朝廷の支配領域に侵入したり公民を脅かしたりする蝦夷を討ち払う征討、最後に蝦夷の動向を探査する斥候です。払田柵は延喜7年(907年)に大改造して最盛期を迎えますが、天暦4年(950年)に政庁が縮小されて、その後しばらくして役目を終えて廃止されました。
払田柵の特徴
払田柵は蝦夷に対して視覚的に威厳を示す効果がありました。城柵を取り巻く外柵は高さ3メートル60センチの30センチ四方の角材がびっしりと並ぶ木材塀でした。外柵には東西南北の4方向に門が設けられ、復元された外柵南門は柱の太さが60センチある4本の柱が3列並び、高さ9.7メートルある荘厳な建物でした。
蝦夷に対して威厳を示しました
幅10メートルの通りが門と正庁を繋ぎます
外柵南門から幅10メートルの南大路が政庁まで続き、政庁が置かれる長森丘陵を取り囲むように外郭が設けられ正面南側は築地塀、北側は材木塀が築かれていました。政庁正面にあたる外郭南門は石段と柱だけが復元されていますが、当時は門が建てられていました。門の左右に配された石塁は全国的にほとんど例がなく、ある程度幅がある石塁の上には櫓がありました。
門の両脇に石垣が築かれています
政務や儀式が行われた城柵の中枢です
長森丘陵の中心部に置かれている政庁は払田柵で最も重要な施設でした。板塀で四方を囲んだ政庁は正面に立派な建物の正殿がありました。正殿の両脇には西脇殿と東脇殿の2つの建物が置かれ、草も生えていない広場を中心にコの時型に正殿と脇殿が配置されていました。政庁は儀式空間として数々の政務や蝦夷の服属儀礼が行われました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒014-0802 秋田県大仙市払田
- アクセス
- JR大曲駅から車で15分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図