上人檀廃寺跡と米山寺経塚群
大宝律令で立国した石背国の国府が置かれた須賀川は、京から多賀城まで東山道の開削に伴い交通の要衝として栄えました。現在発見されている遺跡のうち上人壇廃寺跡は古代の寺院で東北地方にある地方寺院として貴重な存在であり、米山寺経塚群は平安時代末期の仏法思想を現した経文を納めた塚が残されます。
奈良・平安時代の須賀川
律令制度下における養老2年(718年)に陸奥国のうち白河郡、石背郡、会津郡、安積郡、信夫郡の5郡を割譲して石背国が立国し、その国府が上人檀廃寺跡付近の栄町遺跡に置かれていたと言われます。養老4年から養老5年には石背国は再び陸奥国に統合されますが、国府の跡地には奈良~平安時代にかけて石背郡(磐瀬郡)の役所が設けられていたことが発掘調査から判明しています。
古くから交通の要衝で国府や寺院が置かれました
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飛鳥時代の7世紀から平安時代の10世紀までの大宝律令で制定された五畿七道の一つである東山道が開削され、京から陸奥国国府の多賀城までを結ぶ道ができました。東山道に位置する須賀川市は古代交通の要衝として磐瀬駅が設置され、多くの人が往来していました。
上人壇廃寺跡
上人壇廃寺跡は、石背国が成立した8世紀前半に創建された古代寺院跡です。南門、金堂、講堂が南北方向に一列に並び、それを囲む二重の溝が発見されました。金堂周辺から六角形の瓦塔、溝跡からは打ち鳴らす鉦の一種である金鼓、経典の軸止めである経軸端などが出土しました。
奈良から平安時代の古大寺院跡です
地方寺院の特徴を今に残す貴重な発見がありました
油などの燃料に灯心を浸して火をともす灯明皿が発掘され、夜間の照明が存在しない時代で日常とは隔絶した世界を表現していたようです。このようなことから、奈良時代から平安時代にかけて東北地方における地方寺院として貴重な存在であることから、昭和43年(1968年)に国の史跡に指定されました。
米山寺経塚群
米山寺経塚群は明治17年(1884年)に日枝神社の本殿を建て直すときに発見されました。裏山の塚を整地したときに青銅の経筒や経文を入れた陶製の筒などが発見され、境内から全部で10基の経塚が発見されています。今からおよそ840年前の平安時代後期に作られたものと推定されています。
日枝神社の裏山から発見されました
経塚は全部で10基発見されています
平安時代末期は、仏陀が入滅して1500年以降は仏法が滅び最悪の時代が訪れるという考え方が全国的に広まり、これを恐れた人々が弥勒菩薩がこの世を救う時まで経文などを土中に埋納して仏法を残しておこうと塚を築いて経文を納めたものです。米山寺経塚群は昭和12年(1937年)に国の史跡に指定されました。
米山寺跡
米山寺経塚群の南麓にある米山寺跡は、奈良時代から平安時代の寺院跡です。日枝神社の裏山で発見された平安時代の経塚群から出土した経筒外筒の銘文から存在が明らかになり、昭和54年(1979年)から昭和56年(1981年)の発掘により掘立柱建物跡や礎石建物跡が発見されました。
昭和の発掘調査で建物跡が発見されています
仏堂、薬師堂、厨房と倉庫の跡が残されています
米山寺跡からは土師器・須恵器・赤焼土器・青磁・平瓦・丸瓦などが発掘されており、上人壇廃寺跡とは異なり氏族が一族の繁栄や先祖の追善などを祈るための氏寺的な性格が想定されています。米山寺跡は現在は米山寺公園として市民の憩いの場として整備されています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒962-0052 福島県須賀川市西川字坂の上
- アクセス
- JR須賀川駅から車で5分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
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