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忍城

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城

忍城は、戦国時代に成田氏が本拠を置いた平城で映画「のぼうの城」の舞台となりました。利根川と荒川に挟まれた扇状地にあり広大な湿地帯を巧みに利用した城で関東七名城に数えられます。豊臣秀吉と石田三成から水攻めされますが最後まで落城しませんでした。忍城下は北武蔵の交通の要衝として街道の宿場町があり、行田市の伝統工芸品である行田足袋の誕生につながります。

忍城と成田氏

忍城は、この地を統治していた忍氏の居館が前身と云われています。武蔵国司の藤原基忠を祖として北武蔵の一大勢力を築いた成田氏は、文明10年(1478年)頃、成田正等、顕泰父子が忍一族を滅ぼし本拠として城郭化しました。

成田顕泰は関東管領・上杉顕定に従いましたが、北条氏が勢力を伸ばして北武蔵が北条氏と上杉氏に挟まれる地域になると上杉顕定は北条氏を抑えるため忍城の備えを強化するよう指示しています。

忍城三階櫓

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城の忍城三階櫓異なる場所に復元されました

忍城

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城ジオラマ水濠で囲まれている巨大な城でした

15代当主成田親泰は、北武蔵最大の版図を獲得して最盛期を迎えますが、上杉氏が北条氏の勢いに押され天文21年(1552年)に北条氏康が平井城を落ちて関東管領上杉憲政が越後に逃れると16代当主成田長泰は上杉氏に見切りをつけ北条氏に従属しました。しかし、上杉謙信が関東に侵攻すると上杉方に従属するなど、情勢に応じて従属先を変え、上杉謙信による関東侵攻が落ち着くと北条家に従属しました。

忍城の戦い

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり織田信長の後継者として豊臣秀吉が天下統一に向かうころ、関東では北条氏が関東制圧に乗り出していましたが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉は関東惣無事令を出して戦争を止めるように指示します。

天正17年(1589年)に北条家臣猪俣邦憲が真田家の名胡桃城を奪う事件が起こり、これを惣無事令違反と見なした豊臣秀吉は北条氏の討伐を決定し全国の大名に号令を出します。忍城の成田氏長も小田原城に入り、忍城では成田氏長の叔父・成田泰季を城代として守りました。成田泰季は戦中に病死してしまい、その嫡男・成田長親と甲斐姫が忍城を守りました。

忍城絵図

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城の忍城絵図浮き城と呼ばれる堀が巡らされた城です

石田堤

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、石田堤石田三成が水攻めのために築造した堤です

忍城の攻撃は石田三成が総大将として2万3千の軍勢が押し寄せました。さきたま古墳の丸墓山古墳に陣を置いた石田三成は水攻めのための堤防工事を始め、数日で全長28キロにも及ぶ壮大な堤防(石田堤)を完成させました。忍城の水攻めは備中高松城と紀伊太田城の水攻めとともに日本三大水攻めに数えられますが、石田堤は決壊し忍城に大した打撃を与えることができませんでした。

〇〇年に小田原城が開城すると成田氏長の説得に応じて忍城も開城しました。成田氏は北条方に属したため一時所領を失いますが、氏長の娘・甲斐姫が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けたため、下野国烏山を領して大名に返り咲きましたが、氏長の孫の代に後継者争いで改易となり、子孫は御家人や旗本として江戸時代を渡りました。

江戸時代以降の忍城

徳川家康が関東に入ると徳川家康の四男松平忠吉が忍城に配置され忍藩が置かれました。寛永16年(1639年)に老中・阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われています。その後城主が変わりながらも忍藩の政庁と栄え、忍城下は北武蔵の交通の要衝として街道の宿場町がありました。江戸時代後期からは行田足袋として足袋の産地となります。

行田足袋

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、行田足袋行田市の伝統工芸品です

行田市郷土博物館

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、行田市郷土博物館忍城や行田市の古墳などの展示があります

明治時代になると廃藩置県に伴い「忍県」の県庁が二の丸に置かれましたが、その後廃城となり城内の構造物はほとんどが撤去されました。現在は忍公園として行田市郷土博物館が整備されています。

忍城本丸跡地

忍城本丸にはいつ築造されたか分かりませんが土塁が残されています。土塁にある門は藩校進脩館の門が移築復元されたものです。桑名藩主であった松平忠堯は、文政6年(1823年)の三方領地替えによって忍藩主として桑名から移封となり、天保7年(1836年)に桑名の藩校であった進脩館を忍で再興しました。

本丸土塁跡

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城の本丸土塁跡土塁の一部が保存されています

藩校進脩館表門

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城にある藩校進脩館表門藩校進脩館の表門の可能性が高いようです

忍城の二の丸の東隅に鐘楼があり時刻を知らせていました。明治10年(1877年)に取り崩され当時の進修館小学校校庭に再建され時を報じていました。昭和28年(1953年)に東照宮へ移転し平成4年(1992年)に現在の場所に移設されました。

忍城鐘楼

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城の忍城鐘楼二ノ丸にあった鐘楼が移築されています

忍城時鐘

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城時鐘享保2年(1717年)に鋳造された鐘です

鐘は享保2年(1717年)に伊勢桑名藩主・松平忠雅により鋳造され、文政6年(1823年)に松平氏が桑名藩から忍藩へ移封されるのに伴い忍城へ移されたものです。現在の鐘は平成4年(1992年)に鋳造されたもので、オリジナルは行田市郷土博物館に展示されています。

忍城高麗門

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城の忍城高麗門民家にあったものが移築されています

忍城水濠

埼玉県行田市の旅行で訪れた観光名所、忍城水濠浮き城と呼ばれる水濠で囲まれた城でした

忍城は浮き城と呼ばれる水濠が張り巡らされた城でした。水濠の近くにある高麗門はかつて忍所の城門でしたが、どの門であったかは不明で市内の民家にあったものが移築されています。

まち旅(旅行、観光)の記録

まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。

まち旅(旅行、観光)の記録
住所
〒361-0052 埼玉県行田市本丸17−23
アクセス
JR行田駅から市内循環バスで「忍城址・郷土博物館前」下車
秩父鉄道行田市駅から徒歩15分
営業時間
9:00〜16:00
料金
200円
地図