鉈切洞穴
鉈切洞穴は、自然の営みでつくられた海食洞穴です。船越鉈切神社の洞穴は縄文時代の地球温暖化で水位が上昇して崖が侵食されてできました。現在は館山湾に面した市内浜田の船越鉈切神社の裏手にあたる標高約25mの海岸段丘上にあります。洞穴入口は、高さが最大4.2m、幅は開口部で5.85m、奥行き36.8mと大きく縄文時代後期から使用がはじまり、古墳時代には一部は墓所として利用されました。その後海神を祀る神社として地元漁民の信仰をあつめ現在に至ります。昭和42(1967)年に県指定史跡になりました。
船越鉈切神社
船越鉈切神社は創建年代等は不詳ですが、海側にある海南刀切神社と併せて一社とし、当社を上の宮、海南刀切神社を下の宮として「西岬のなたぎり神社」と称されてきたといいます。伝承では「神が船に乗って来られたとき、この浜に上陸されてから手斧をもって巨岩を切り開いて路を通じた」ことから船越と刀切の二社が祀られたとも「海中から出現した神が当地に住んでいた大蛇を鉈で退治したため鉈切の称号を奉り、年々竜宮からここに船が来るため船越大明神となった」ともいいます。
江戸時代の燈籠なども奉納されています
鎌倉から室町時代の武士階級の墓です
鳥居をくぐり鬱蒼とした薄暗い参道を進むと、両脇に様々な祠などが奉納されています。やぐらは鎌倉や房総半島で鎌倉時代から室町時代に多くつくられた武士階級の墓で長い年月で苔むしています。
鉈砥ぎ石は、浜田洞穴に住む大蛇が村人を苦しめていました頃、それを知った神様が大蛇を退治するために鉈を砥ぎ、試し切りをしたところ大蛇が真っ二つに割れてしまったという伝説が残る鉈砥ぎ石です。
大蛇を真っ二つにした砥ぎ石です
安政2年(1855年)に奉納されました
船越鉈切神社の拝殿近くには小さて簡素な手水舎があります。この手水舎にある水を貯める手水石は安政2年(1855年)に奉納されたものです。この手水舎の先に拝殿があり、拝殿の脇から史跡の鉈切洞穴を見学することができます。
木造のこじんまりとした拝殿です
縄文時代に生活の営みがありました
船越鉈切神社本殿は、拝殿の裏にある鉈切洞穴にあります。この洞窟は約2万年前に波の侵食による海食洞穴で、昭和31年(1956年)に発掘調査が行われ、縄文時代後期(約4,000年前)を中心とした土器や動物や魚の骨、貝類、鹿の角や動物の骨で作られた釣針などが多数出土しています。
鉈切洞穴にある本殿には海神である豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)が祀られています。
船越鉈切神社の拝殿前には館山市指定文化財の独木船(まるきぶね)が保管されている蔵があります。詳細は不明ですが、長さ219センチメートル、幅79センチメートルの船で祭礼の時に見学することができます。
海南刀切神社
鉈切洞穴がある船越鉈切神社から房総フラワーラインを挟んで海側には海南刀切神社があります。船越鉈切神社と海南刀切神社は、山側の「船越鉈切神社」を上の宮、海側の「海南刀切神社」を下の宮といい、かつては1つの神社でした。
下の宮にあたる神社です
若者たちが力比べをしました
境内には力石が奉納されています。力石は江戸時代に若者たちが力比べをした石で、多くの神社でも奉納されていますが、この力石も見物村の屈強の若者達がこれを持ち上げて力比べをして諸願成就を祈願して奉納されたと伝承されています。
海南刀切神社は刀切大神(なたぎりのおおかみ)を祀ります。その拝殿は明治16年頃に造られたもので、北条村の後藤忠明一派が作成した竜や獅子のほかに天岩戸開きの図やヤマタノオロチ退治の図、孝子の図など細かい彫刻が施されています。
細かい彫刻が施されています
拝殿の裏手には2つに切られた巨岩あります
海南刀切神社は手斧をもって巨岩を切り開いて路を通じたとの伝承があり、拝殿の裏手には高さ10メートルの巨岩があり真っ二つに割れています。
海南刀切神社では7月の祭りに合わせて「カッコ舞」という舞踊が奉納されています。古くから伝わる雨乞いの農耕儀礼で、昭和45年に市指定無形民俗文化財に登録されています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒294-0303 千葉県館山市浜田376
- アクセス
- JR那古船形駅よりバスで「安房浜田」下車徒歩約5分
- 営業時間
- 特になし
- 料金
- 無料
- 地図