香取神宮
香取神宮は、関東地方を中心として全国にある香取神宮の総本社です。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社になっています。
祭神は、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)です。古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬されました。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬されました。
ご祭神の神話
香取の御祭神 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は、出雲の国譲りの神話に登場して大きな役割を果たした神様です。
はるか昔、高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、葦原中国(あしはらのなかつくに:現在の日本)は自分の息子が治めるべきだと考えました。
葦原中国は荒ぶる神々が争い乱れていたため、天照大神が八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神であるということで出雲国の大国主神(おおくにぬしのかみ)の元に遣わされましたが、天穂日命は大国主神に従い家来になってしまいました。次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされましたが、天稚彦もまた忠誠の心がなく、大国主神の娘である下照姫(したてるひめ)を妻として自ずから国を乗っ取ろうとして天照大神の元に戻りませんでした。
このようなことが二度続いたので天照大神は八百万神にもう一度慎重に相談すると、神々が口を揃えて経津主神こそふさわしいと言いました。そこへ武甕槌大神(たけみかづちのかみ)も名乗り出て、二神は共に出雲に派遣されることとなりました。
出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いた経津主、武甕槌が十握剣(とつかのつるぎ)を抜き逆さに突き立て武威を示すと、大国主神は天照大神の命令に従い葦原中国を譲りました。
二神は大国主神から平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、日本の国を平定して、天照大神の元へ復命されたのです。
香取神宮
香取神宮は亀甲山(かめがせやま)という小高い山に位置し、一帯は香取の杜と呼ばれています。朱塗りの大鳥居をくぐると石燈籠が並ぶ参道が続きます。
参道正面にある第二の鳥居です
鬱蒼とした玉砂利の参道の両脇には燈籠が並びます
参道を上がったところに神池がありました。神池を過ぎると石鳥居があり、階段のうえに総門があります。
神池には鯉が泳いでいました
一の鳥居の奥には朱色の門があります
楼門は、国の重要文化財に指定されています。元禄13年(1700年)に徳川幕府(5代将軍綱吉)が造営しました。迎え入れる両脇の像は、右が武内宿祢、左が藤原鎌足と云われています。
国の重要文化財に指定されています
国の重要文化財に指定されています
楼門をくぐると正面に檜皮葺の屋根に柱や梁は極彩色で彩られた拝殿があり、その奥に黒を基調とした格式高い本殿(重要文化財)があります。本殿は楼門と同じ元禄13年(1700年)に造営されました。
香取市有形文化財に指定されています
御神木は樹齢千年、目通り7.4メートルあるそうです
御神木は樹齢1,000年余り、目通り約7.4メートルあるそうです。とても立派ですね。
香取護国神社
昭和21年(1946年)9月創建されました。明治以降の国難に殉じた香取郡出身の御霊を御祭神としています。
香取神宮の入口すぐです
一の鳥居から目の前に神社本殿があります
香取神宮の参道入ってすぐ左に護国神社の参道があります。鬱蒼とした参道を上がっていけば鳥居が出てきます。そこをくぐれば護国神社の本殿があります。
明治以降の国難に殉じた香取出身者を祀ります
地震を抑えるため供えられました
本殿の横を通過して奥に進むと、香取神宮の要石が安置されています。その昔、香取の人々は地震が多くて困っていました。地震は地中にいる大ウナギが暴れるために起こると言われたため、地中深くまで差し込んでいる霊石です。貞享元年(1684年)に徳川光圀が香取神宮を参拝した際、要石の周囲を掘らせましたが根元には届かなかったと伝えられています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒287-0003 千葉県香取市イ1903 -1
- アクセス
- JR成田線佐原駅より徒歩30分
- 営業時間
- 特になし
- 料金
- 特になし
- 地図