まいぷら

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神田/秋葉原

東京都千代田区の旅行で訪れた観光名所、秋葉原電気街

神田と秋葉原は千代田区北東部に位置します。江戸時代は商工業が活発で鍛冶、紺屋、材木、旅籠などの街並みがありました。神田川沿いには鎌倉河岸、佐久間河岸などがあり生活物資が集まり神田多町には青物市場が設けられていました。やがて神田多町の青物市場は貨物列車が停まる秋葉原に移転されています。現在も商工業が盛んで、秋葉原は日本最大級の電気街として日本のみならず世界中から訪問者があります。

神田

神田は、伊勢神宮に稲の初穂を奉納する神の田があったことに由来します。神田須田町の界隈は8本の道が交差する交通の要衝として栄え徳川将軍家が上野寛永寺を参拝するときも神田を通過しています。明治6年(1873年)には東京最初の石橋である万世橋が架けられました。

江戸総鎮守神田明神

天平2年(730年)に武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が大己貴命を祖神として大手町に神田明神(神田神社)を祀りました。江戸城を築城した徳川家康は、江戸城の表鬼門にあたる現在の地に神田明神を遷座して江戸総鎮守としました。

神田明神隨神門

東京都千代田区の神田明神隨神門神田明神の山門です

神田明神拝殿

東京都千代田区の神田明神拝殿アイドルも参拝するそうです

神田明神の御祭神のひとり平将門は、天慶3年(940年)に藤原秀郷・平貞盛らに敗れて京都に晒し首となりましたが、その首が東国に飛んで行き首が落ちた場所に将門塚が造られました。将門塚はパワースポットとして有名で、大正12年(1923年)の関東大震災で被害を受けた将門塚は、取り壊されてその跡地に大蔵省仮庁舎が建設されましたが、大蔵省の役人や工事関係者が相次いで病や怪我に倒れて平将門の祟りと恐れられました。

将門塚

東京都千代田区の将門塚徳川家康なども崇敬しました

獅子岩

東京都千代田区の神田明神石獅子名工・石切藤兵衛が製造した石獅子です

平将門は延慶2年(1309年)に神田明神に祀られ、太田道灌や徳川家康などから崇敬を受けています。神田明神で2年に1度行われる神田祭は徳川将軍が上覧したため御用祭となり、日本三大祭、江戸三大祭に数えられています。

神田多町市場

人口が増加した江戸の食糧需要増加に対応するため、慶長17年(1612年)に伊勢の青物商人を呼び寄せて神田橋のたもとに神田多町市場が開かれました。当時は水運による物流が主流の方法であり、河川と橋がある鎌倉河岸の北側の湿地を埋め立てて市場が開かれました。

日本橋川

東京都千代田区の日本橋川首都高速の下を流れます

神田市場跡

東京都千代田区の神田多町市場公園として整備されています

明暦3年(1657年)の明暦の大火が起こると、幕府は江戸の町に散在していた青果市場を神田多町に集めて神田多町市場としました。この名残は神田多町として名前を残しています。神田多町市場は関東大震災後に復興の一環として貨物駅がある秋葉原に移転され神田青果市場となり、さらに平成2年(1992)に大田区へ移転しています。

東京復活大聖堂(ニコライ堂)

東京復活大聖堂(ニコライ堂)は、神田駿河台にある日本ハリストス正教会の大聖堂です。明治24年(1891年)に竣工した建築面積約800平方メートルの建物で、緑青の高さ35メートルのドーム屋根が特徴です。日本で初めて建造された最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築と言われ、昭和37年(1962年)に国の重要文化財に指定されました。

東京復活大聖堂(ニコライ堂)

東京都千代田区の東京復活大聖堂(ニコライ堂)国の重要文化財に指定されています

東京復活大聖堂(ニコライ堂)

東京都千代田区の東京復活大聖堂(ニコライ堂)ニコライ堂の内部にはフレスコ画や彫刻があります

ロシアから来日したニコライ大主教は北海道函館で布教を行いましたが、明治5年(1872年)に神田駿河台の定火消役宅の跡地を購入して主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する復活大聖堂として建てられました。明治24年(1891年)に完成した大聖堂には綺麗なフレスコ画や彫刻などが掲げられます。

秋葉原

江戸時代に下級武士が住んでいた秋葉原は、火事に悩まされた地域でした。明治時代に鎮火の神として秋葉神社が遷座すると秋葉原と呼ばれるようになりました。終戦後に開かれた闇市が電気街へと発展して、現在はポップカルチャーの聖地となりました。

江戸から明治時代の秋葉原

江戸時代の秋葉原は、下級武士の住居が密集する地域でした。火事と喧嘩は江戸の花と言われるように当時は火事が多く、秋葉原も火災に悩まされ続けた地域でした。明治2年(1869年)に発生した相生町の大火は大きな被害があり、東京府は約3万平方メートルの火除地を設置して明治3年(1870年)に遠江国から火除けの秋葉大権現を祀りました。人びとは鎮火神社がある原として鎮火原と呼び、鎮火神社が秋葉神社に改められると秋葉原と呼ぶようになりました。

太平洋戦争後の秋葉原

太平洋戦争で焼け野原と化した秋葉原は、戦後の混乱期に神田小川町から神田須田町にかけて闇市ができました。闇市では当時の娯楽の一つであるラジオの部品を扱う専門店が増えましたが、昭和24年(1949年)にGHQが露店撤廃例令を発布したことで闇市が秋葉原駅ガード下に収容されて秋葉原電気街ができました。家電元年と呼ばれる昭和28年(1953年)にテレビ放送が開始されて白黒テレビが普及し始めると、家電製品はあらゆるニーズに応える形で進化を続けました。

秋葉原

東京都千代田区の秋葉原メイドが客引きしています

秋葉原

東京都千代田区の秋葉原ポップカルチャーの聖地になりました

平成12年(2000年)のあたりにはインターネットが普及してITバブルに湧き、秋葉原はPC部品を買い求める客で溢れました。やがてITバブルは終わりますが、秋葉原の客はゲームやアニメなどに興味の対象を拡げていきました。秋葉原はメイド衣装に身を包んだ客引きが溢れるようになり、特に外神田にはAKB劇場ができて周辺にメイドカフェが軒を連ねてマンガ、アニメ、フィギュアなどのポップカルチャーの情報発信地として世界の注目を集める街となりました。

まち旅(旅行、観光)の記録

まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。

まち旅(旅行、観光)の記録
住所
東京都千代田区
アクセス
JR秋葉原駅から徒歩5分
営業時間
24時間
料金
無料
地図