霞が関/永田町
霞が関や虎ノ門などの地域は、江戸時代に武家屋敷が並びました。明治時代になると霞が関は中央省庁の庁舎が点在する官庁街として日本の首都機能を担い、昭和時代に永田町に国会議事堂が建てられました。
霞が関
霞が関は日本武尊が東北地方の蝦夷の襲撃に備えて築いた関所霞が関から名付けられました。江戸時代には大名が住む武家地であり、日向延岡藩内藤家、筑前福岡藩黒田家、安芸広島藩浅野家、出羽米沢藩上杉家などの上屋敷がありました。明治時代になり黒田家の上屋敷を居抜きして初めての官公庁となる外務省ができたため、外務省表玄関には武家屋敷の名残として石垣が残されています。
赤レンガの国指定重要文化財です
官公庁街の中心にある坂道です
霞が関坂の麓にあたる日比谷は、かつて日比谷入江と呼ばれる海が広がりました。現在は埋め立てられて面影はありませんが、歌川広重の浮世絵には霞が関坂に平行する潮見坂の上から眺められる海が描かれています。
江戸城外堀石垣跡
日向延岡藩内藤家の敷地は昭和43年(1968年)に霞が関ビルディングが竣工しました。高さ147メートルあり、竣工当時は日本で最も高層のビルでした。日本で初めて耐震構造を備えて超高速エレベーターが導入され、商業施設や公開広場が併設されたビルとして日本の高度経済成長期の面影を今に残しています。
伊豆半島から石が運ばれてきました
石垣に築造した大名の刻印があります
霞が関ビルの麓にある地下鉄虎ノ門駅には江戸城外堀石垣跡が残されています。江戸城の石垣は伊豆の石切場で切り出された石が加工されて、船で江戸まで運搬されていました。徳川家康の命により諸藩大名が江戸城築城を行いますが、江戸城の石垣には諸藩大名ごとに刻印が施されて、どの大名が築いた石垣なのか分かるように工夫されています。
永田町
永田町は、江戸時代に馬場があり、その道筋に永田姓の旗本の屋敷が並んでいたことから、永田馬場が転じて永田町となりました。明治時代になり多くが軍用地となりましたが、我が国の国会が開かれる国会議事堂を中心に首相官邸、国会議員の事務所など我が国の政治の中枢機能が集中して現在に至ります。
国会議事堂
昭和11年(1936年)に完成した国会議事堂は、サラリーマンの平均月収が40円前後の時代に2570万円の巨費が投じられて建造されました。工事には延べ約254万人が携わり、材料として使用した石はどれも国産のもので、40種類以上の大理石や花崗岩が使用されていますが、その中には掘り尽くされて入手困難な石もあるため、国会議事堂は石の博物館とも呼ばれるとともに二度と造ることができない建造物とも言われています。
全国から選りすぐられた資材で最高技術で造られました。国会議事堂の前は銀杏並木です
石の博物館と言われる最高傑作です
国会議事堂は長さ206メートル、奥行89メートル、中央塔の高さ65メートルあり、面積は1万3千メートルを超えます。中央塔の高さは建造当時は日本で最も高い建造物でした。国会議事堂は左右対称になっており、中央棟を中心に左側が衆議院、右側が参議院になります。中央部分には中央玄関、中央広間、大臣室、天皇陛下がお休みになる御休所、皇族室などがあります。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 東京都千代田区
- アクセス
- 霞が関駅から徒歩5分圏内
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図