月島/晴海
江戸時代の初めの月島や晴海がある一帯は、石川島と佃島の2つの小さな島があるだけで海が広がりました。徳川家康の計らいで摂津国佃村の人たちが佃島に移住して拡張していき、幕末に徳川斉昭が石川島に造船所を建造すると佃島と石川島は合体して工業地帯を成すようになり、月島や晴海ができていきました。
佃島の造営と石川島
徳川家康は、かつて兵庫県多田神社を参拝しようとしたとき、氾濫した川を渡河するために船を出してくれた摂津国佃村の漁師を関東に招き、漁業に係る特権と東京湾の干潟を与えました。佃村の漁師たちは干潟を埋め立てて佃島を造営、拡張していきました。佃島の漁師たちは徳川将軍家に魚を献上して財を成しました。佃島の漁師が保存食とした佃煮は、広く知られることになります。
築地本願寺にある佃島初代名主の墓です
水戸藩主徳川斉昭により造営されました
幕末に外国船が来航するようになると、水戸藩主徳川斉昭は海防参与として嘉永6年(1853年)に石川島造船所を建造しました。石川島は近代的造船発祥の地となり、やがて石川島と佃島の一帯は埋め立てられて関連する工場が整備され工業地帯となりました。明治時代になると、造船所は民間に払い下げられて石川島播磨重工業になりました。
月島
隅田川の河口にあたる月島はかつて海でした。明治20年(1887年)から砂や小石が堆積して船の座礁が問題となり、隅田川河口の浚渫工事により取り除かれた砂や小石で造営された島が月島になります。佃島砲台から埋め立てが進められ、明治24年(1891年)に築島と命名されましたが、のちに築地と区別するために月が美しく見える場所として月島に改名されました。明治政府の殖産興業政策により工業地帯となり人の往来に支障をきたしたことから、勝鬨橋が建造されて月島と築地の往来が渡船から橋へ移り変わりました。
月島もんじゃストリート
昭和25年(1950年)頃に東京下町の味であるもんじゃ焼きを提供する店が並ぶ月島もんじゃストリートが造られました。月島もんじゃストリートは壱番街から四番街まで区分けされた長さ500メートルほどの商店街で、当初は4店舗ほどしかありませんでしたが、令和元年度現在で54店舗が並びます。
500メートルほどの商店街です
もんじゃ焼の店舗が50軒以上あります
もんじゃストリートは戦後の復興に合わせて整備されましたが、月島は太平洋戦争の戦災を免れたため交差点には大正15年(1926年)に建造された、現存する最古の交番が残されています。また、もんじゃストリートの裏路地には下町風情が残る建物があり、中には築100年を超える古い建物が残されています。
現存する最古の交番です
地元有志が建立した観音堂の隣に銭湯があります
昭和26年(1951年)には地元有志により月島観音が建立されました。平成13年(2001年)の再開発により現在の建物内に移転されましたが、本堂は光が差し込む構造が採用されています。月島観音の隣には月島温泉と名付けられた銭湯があります。
晴海
明治時代に埋め立てられた晴海は、昭和15年(1940年)の日中戦争勃発により中止された幻の東京万博で日本建築のパビリオンとなる予定でした。令和3年(2021年)に開催された東京五輪では選手村ができ、その跡地にはタワーマンションなどの整備が進められています。
晴海ふ頭公園
晴海の先端にある晴海ふ頭は平成3年(1991年)に完成しました。建造当初は大型客船の受け入れなどを予定していましたが、近年に大型客船が巨大化したことで東京湾のレインボーブリッジの下を通航することができなくなり、晴海ふ頭の機能は台場に建造された国際クルーズターミナルに機能が移りました。
公園には展望台があります
晴海ふ頭からの夜景は綺麗です
晴海ふ頭は令和3年(2021年)に開催された東京オリンピックの選手村として利用されたあと、令和4年(2022年)に晴海ふ頭公園としてリニューアルオープンしました。建造当初から夜景スポットとして有名な先端にある展望台からは今も変わりなく美しい東京の夜景を眺めることができます。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 東京都中央区月島1丁目3丁目
- アクセス
- 東京メトロ有楽町線、大江戸線「月島」下車
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図