築地
築地は江戸時代の明暦の大火で新たに土地を造るため海を埋め立てて築いた土地として築地と名付けられました。開国してからは外国人居留地として広く外国の異文化を取り入れる窓口となり、キリスト教建築の建物が造られました。また大正時代の関東大震災を契機として、日本橋魚河岸から築地市場に移転して世界最大の水産物流通量を誇る都民の台所として栄えました。
浜離宮恩賜庭園
かつて築地の周辺は海沿いの葦原で、徳川家が鷹狩場として利用していました。承応3年(1654年)に甲府藩主の松平綱重が、兄の4代将軍徳川家綱からこの地を拝領して海を埋め立てて別邸を建てました。別邸は甲府浜屋敷と呼ばれていましたが、松平綱重の子である徳川家宣が6代将軍に就任したことで、将軍家の別邸として浜御殿と改称されるようになりました。
高層ビルの中に庭園が造られています
東京湾の海水が取り込まれています
浜御殿は改修が進められ、東京湾から海水を引き込んで潮汐の干満で景色が変化する工夫が施されました。8代将軍徳川吉宗の時代には、殖産の試験場として二百種を超える薬草の栽培や砂糖の試作が行われるようになり、幕末に松の茶屋や燕の茶屋が建てられて外国人接待所としても利用されました。
要人をもてなした茶屋です
明治政府の迎賓施設の跡地です
明治時代に宮内省の管轄となり浜離宮と改められますが、迎賓館としての役目は引き継がれました。昭和19年(1944年)の東京大空襲で焼失しました。終戦を迎えた昭和20年(1945年)にGHQの指示により浜離宮は東京都に譲渡され、昭和21年(1946年)に都立庭園として解放されました。
築地の造営と本願寺の移転
明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火は、江戸の町の多くを焼失させました。幕府は復興計画として隅田川河口部にあたる一帯を開発して武家地としました。明暦の大火で焼失した本願寺は元和3年(1617年)に准如上人により浅草に建てられましたが、江戸幕府の区画整理により元の浅草には建てられず移転を余儀なくされ、佃島漁師の門徒たちが海を埋めてて本願寺再建の土地を築きました。
古代インド仏教式の建造物です
築地本願寺にある佃島初代名主の墓です
築地の埋立工事は波浪により工事が難航を極めましたが、このときに海を漂流していた稲荷明神の像を祀るようになると波浪が治まり工事が無事完了したと言われています。この稲荷明神は築地波除神社に祀られるようになり、航海安全や災難除けなどで篤く信仰されるようになりました。
築地造営のときに波を鎮めました
外国人居留地にある日本最古のカトリック教会です
幕末に多くの外国人が来日すると、明治政府は明治元年(1869年)に築地鉄砲洲(現在の明石町付近)に外国人居留地を造営しました。明治11年(1878年)には、東京で最古のカトリック教会としてカトリック築地教会聖堂が完成しました。
築地市場の造営
明暦の大火で造営された築地は、大名の別荘地である中屋敷や下屋敷が多く作られていました。寛政の改革を断行した老中松平定信の下屋敷も置かれており、質素倹約の政治理念に反して浴恩園と呼ばれる豪奢な庭園を築いていました。松平定信の屋敷跡は、のちに築地市場が置かれることになります。
江戸時代から続く魚河岸です
関東大震災を契機に日本橋魚河岸が移転しました
江戸時代から活気に溢れていた日本橋魚河岸は、大正12年(1923年)の中央卸売市場法制定により行政が管理監督するようになり、狭くて不衛生な魚河岸は移転が計画されました。移転に対して反対意見が根強く残りましたが、その半年後に発生した関東大震災で壊滅的な被害を受けて築地の海軍省所有地に仮設市場が開設されたことを契機に昭和10年(1935年)に築地市場が完成しました。築地市場は戦時中の統制で活気を失いましたが、終戦とともに賑わいを見て世界最大の水産物流通量を誇る市場へと成長しました。平成30年(2018年)に建物の老朽化などを理由に豊洲への移転が決まりました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 東京都中央区築地
- アクセス
- 都営大江戸線「築地市場駅」又は東京メトロ日比谷線「築地駅」徒歩1分
- 営業時間
- 9:00~14:00(通常販売時間)
- 料金
- 無料
- 地図