新橋/汐留/虎ノ門
東京都港区の北東端に位置する新橋は、汐留川に架けられていた新橋が名前の由来です。明治5年(1872年)に鉄道の起点駅として新橋駅が開業し、大正3年(1914年)に東京駅が開業されるまで起点駅としての役割を担いました。東京駅が開業すると汐留駅に改称され、烏森駅が現在の新橋駅になります。
虎ノ門
佐賀藩主鍋島勝茂は、慶長11年(1606年)に江戸城から小田原に通じる中原街道に門を建てました。この門は陽明学の四神相応で江戸城の西(白虎)に位置するため虎ノ門と呼ばれるようになり、やがて地名として定着しました。
西久保八幡貝塚
縄文海進で内陸まで海が広がる縄文時代には、武蔵野台地東南端の愛宕山付近の台地には人の営みがありました。台地から我善坊谷に向かう傾斜地には縄文時代後期の西久保八幡貝塚が造営され、貝層の下層から縄文時代前期の遺物も確認されています。
縄文時代前期から人が生活していました
源頼信が石清水八幡宮から勧請して創建しました
長禄元年(1457年)に江戸城を築城した太田道灌は、霞が関に鎮座していた八幡神社を西久保八幡貝塚の頂上に遷しました。徳川秀忠の正室崇源院は関ヶ原の戦いの戦勝を祈願し、その報賽として寛永11年(1634年)に社殿が造営されたと伝わります。
愛宕神社
東京23区の自然地形で最も標高が高い愛宕山山頂には、慶長8年(1603年)に江戸の防火の守りとして愛宕神社が創建しました。愛宕神社の社殿は関東大震災や太平洋戦争で焼失したため、昭和33年(1958年)に再建されています。
桜田門外の変の水戸藩士らの集合地点でした
出世する石段として江戸時代から大事にされた石段です
急な石段の参道は出世の階段と呼ばれ、3代将軍徳川家光の命により馬で駆け下りた間垣平九郎が日本一の馬術の名人として名を馳せたことから呼ばれるようになりました。幕末の安政7年(1860年)の桜田門外の変では、水戸藩士らが集合して祈願して大老井伊直弼を暗殺しました。
虎ノ門金刀比羅宮
万治3年(1660年)に讃岐国丸亀藩主京極高和が芝・三田の藩邸に分霊した金刀比羅宮は、延宝7年(1679年)の京極高豊が現在の虎ノ門に遷して虎ノ門金刀比羅宮となりました。虎ノ門金刀比羅宮は海上守護、大漁満足ほか五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信されています。
ビル街の中にあります
香川県の金刀比羅宮から分霊されています
虎ノ門金刀比羅宮は時代とともに虎ノ門のビル群に囲まれるようになり、その参道は建物を避けるように敷設されました。社務所や神楽殿が虎ノ門琴平タワーと一体化しており、全国的に珍しい造りの神社となりました。
杉田玄白墓
外科医西玄哲にオランダ流の外科を学び、宝暦3年(1753年)に小浜藩医となる杉田玄白は、宝暦4年(1754年)に山脇東洋による解剖を知らされました。明和8年(1771年)中川淳庵の仲介でオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを入手し、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周とともに江戸小塚原の刑場で行われた刑死体の解剖に立ち会いました。このときにターヘル・アナトミアの解剖図の正確さに驚き、翻訳を決意しました。
猿寺と呼ばれる寺院です
日本近代医学の先駆者となりました
杉田玄白は、中川淳庵、桂川甫周、前野良沢とともに4年の歳月をかけてオランダの解剖書を翻訳して、安永3年(1774年)に全5巻の解体新書を刊行しました。杉田玄白は医食同源、養生七不可など多くの教えを遺し、日本近代医学の先駆者となりましたが、文化14年(1817年)に江戸の自宅で没しました。
新橋
江戸時代に汐留川に架けられていた新橋は、宝永7年(1710年)にその北側に江戸城芝口御門が架けられたため芝口橋と改称されましたが、明治時代に新橋の名称に戻されて大正12年(1923年)の関東大震災では地域全体が焼け野原になり町名整理が行われた際に新橋が使われました。
日本鉄道発祥の地
江戸幕府が開かれて江戸城が築城されると、新橋周辺の海は埋め立てられて武家屋敷が建ち並びました。明治時代になり近代化を進める明治政府は、明治5年(1872年)に日本で初めて新橋から横浜まで鉄道を整備し、始発駅の新橋は日本鉄道発祥の地となりました。
日本最初の新橋駅を忠実に再現されています
1972年からSL(C11型蒸気機関車)が展示されます
新橋駅はアメリカ人建築家プリジェンスが駅舎を設計し、機関車や客車の車庫、燃料の保管庫、修理工場などが併設されました。大正3年(1914年)の東京駅の開業に伴い、新橋駅は汐留駅に改称されて貨物専用駅となり、昭和61年(1986年)の貨物輸送廃止に伴い廃駅となりました。現在の新橋駅は東京駅開業により設置された烏森駅を新橋駅と改称したものです。
戦後の闇市とニュー新橋ビル
第二次世界大戦が終結すると、新橋駅東口に露店が自然発生していきました。戦時中に松田組と呼ばれるテキヤ集団が混乱していた闇市の統制に乗り出し、火除地として広い新橋駅前広場は露店が密集して東京最大の闇市が形成されました。
闇市がひしめき合いました
新橋の戦後復興の象徴となるビルです
昭和21年(1946年)から闇市が取り締まられるようになると、松田が中心となり長屋型の共同店舗の建設が進みました。昭和23年(1948年)になるとGHQの指示により露店整理事業が行われ、昭和46年(1971年)に闇市の跡地はニュー新橋ビルが建てられました。
汐留
汐留は、江戸城外堀と海を仕切る堰が設けられ、汐を止める役割から汐留と呼ばれるようになりました。江戸時代の始めまで葦が生い茂る湿地が広がり、徳川将軍家が鷹狩を行う場所として利用されていましたが、寛永18年(1641年)に伊達家など諸藩が幕府から土地を賜り、天下普請と呼ばれる城下町整備事業として汐留を埋め立てて上屋敷を構えました。
汐留シオサイト
明治5年(1872年)に日本で初めて新橋から横浜まで鉄道が開業しました。大正3年(1914年)に東京駅が開業すると新橋駅は汐留貨物駅となりました。昭和61年(1986年)に貨物駅はその役目を終え、その跡地は平成7年(1995年)から汐留シオサイトとして再開発されました。
浜離宮庭園からの汐留です
宮崎駿が手掛けたからくり時計です
汐留シオサイトに置かれた日本テレビには、日テレ大時計と呼ばれる大きなからくり時計が設置されました。スタジオジブリの宮崎駿監督がデザインした巨大なからくり時計は1228枚の銅板を一枚一枚加工して作られています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 東京都港区東新橋
- アクセス
- 新橋駅から徒歩10分圏内
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図