まいぷら

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六本木/麻布

東京都港区の旅行で訪れた観光名所、六本木ヒルズ

六本木と麻布は日本を代表するオシャレな商業施設が建ち並び高級住宅街が広がるスポットです。江戸時代は大名屋敷が並び明治時代に政府が接収して軍の施設などが設けられましたが、戦後に民間に払い下げられ商業施設や住宅地として開発されたところが多いです。

六本木

六本木は六本木ヒルズやテレビ局、商業施設などが多くある地域です。近年では若くして成功した経営者たちが六本木に拠点や住居を構えることから、六本木を拠点とする成功者たちをヒルズ族と呼んでいます。江戸時代は長門長府藩毛利氏の上屋敷があり、そこに預けられていた赤穂浪士が切腹をした場所でもあります。

毛利氏上屋敷跡の毛利庭園

六本木は江戸時代に長門長府藩毛利家の上屋敷がありました。4300平方メートルの広大な敷地には庭園が設けられており、六本木ヒルズ建設の際に現代風の池泉回遊式庭園として毛利庭園が整備されています。忠臣蔵でお馴染みの吉良邸に討ち入りした赤穂浪士のうち10名は、毛利家上屋敷に預けられて毛利庭園で切腹しています。

毛利庭園

東京都港区の毛利庭園宇宙メダカが放流されています

毛利庭園

東京都港区の毛利庭園近代的な美しい庭園になります

平成6年(1994年)に向井千秋さんらは宇宙でメダカの産卵、孵化に成功しました。このメダカは地球に持ち帰られ、宇宙メダカとして平成15年(2003年)に宇宙飛行士の毛利衛さんなどの手により毛利庭園の池に放流されました。

佐藤一斎墓

佐藤一斎は、林錦峯の門下となり、林錦峯が亡くなると林述斎から学びました。寛政12年(1800年)に平戸藩松浦静山の招きにより藩校維新館で教授し、文政2年(1805年)に林家塾頭として多くの門弟を指導しました。天保12年(1841年)には昌平坂学問所の儒官を命じられ、将軍や諸大名に講義しました。

佐藤一斎

佐藤一斎幕末に活躍した儒学者です

深廣寺

東京都港区の深廣寺境内内部は一般公開されていません

佐藤一斎は安政6年(1860年)に死去し、深廣寺境内に埋葬されています。同寺には2代将軍徳川秀忠の正室お江の灰塚がありますが、佐藤一斎もお江の灰塚とも一般の公開はされていません。

六本木ヒルズ

明治時代になると大名屋敷が開放されると大正時代に浅草の一女(白鷗高校)、小石川の二女(竹早高校)、麻布の三女と呼ばれた女子高の名門である東京府立第三高等女学校が創設します。戦後に第三高等女学校は駒場に移転し、その跡地はニッカウヰスキー工場からテレビ朝日に変化していきます。

六本木

東京都港区六本木高層ビルが立ち並びます

六本木ヒルズ森タワー

東京都港区の六本木ヒルズ森タワー高さ238メートルあります

六本木ヒルズは平成15年(2003年)に開業した複合商業施設です。 高さ238メートルの高層オフィスビル(六本木ヒルズ森タワー)を中心に、集合住宅(六本木ヒルズレジデンス)、ホテル(グランドハイアット東京)、テレビ朝日本社社屋、映画館をはじめとする文化施設、その他の商業施設等で構成されています。

麻布

麻布は高級住宅街として知られオシャレな町並みが広がります。日本が開国する安政5年(1859年)の日米修好通商条約を受けて、それまで下田にいた総領事ハリスは安政6年(1860年)から明治8年(1875)に築地の外国人居留地に移転するまで善福寺にアメリカ公使館が設置された歴史があります。

麻布氷川神社

天慶元年(938年)に源経基が平将門の乱を鎮定するため東征したとき、武蔵国豊島郡谷盛浅布冠の松(現在の麻布一本松)に麻布氷川神社を創建されました。江戸城を築城した太田道灌は江戸から災いを守るため氷川社を篤く崇敬し、一本松の松の木を神木として地域に大きな影響を及ぼしたため、麻布氷川神社の周囲には宮村町、宮下町、鳥居坂町、一本松坂下町など麻布氷川神社を中心とした町名が広く点在しました。

麻布氷川神社

東京都港区の麻布氷川神社徳川将軍家からも崇敬されました

麻布氷川神社

東京都港区の麻布氷川神社アニメ美少女戦士セーラームーンの聖地です

徳川将軍家も崇敬しており二代将軍徳川秀忠の正室江姫が安産祈願し、五代将軍徳川綱吉やその生母である桂昌院も祈願されました。現在の社殿は昭和20年(1945年)に戦災で消失して建替えられましたが、境内地の神楽殿、宮神輿庫、手水舎は難を逃れました。平成時代になると社会旋風を起こしたアニメ美少女戦士セーラームーンの火野レイが住んでいる神社のモデルになり、そのアニメの聖地として国内のみならず外国からも参拝者が多く訪れています。

有栖川宮記念公園

江戸時代の浅野家や盛岡南部藩の下屋敷は、明治29年(1896年)に有栖川宮威仁親王の栽仁王新邸造成の御用地となりました。大正2年(1913年)に有栖川宮家が絶えたため、大正天皇は光宮宣仁親王に有栖川宮の旧称高松宮の称号を与えると、児童福祉を目的とする遊び場に深い関心を寄せていた高松宮殿下は、有栖川宮威仁親王の20年の命日にあたる昭和9年(1934年)にこの地を東京市に賜与し、東京市は有栖川宮記念公園として開園しました。

有栖川宮熾仁親王銅像

東京都港区の有栖川宮熾仁親王銅像明治政府で重職に就きました

有栖川宮記念公園

東京都港区の有栖川宮記念公園東京市が記念公園として開園しました

有栖川宮熾仁親王は17歳のときに当時6歳の皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は公武合体の目的で14代将軍家茂と結婚します。熾仁親王は尊王攘夷派となり国事御用掛に任命されましたが、長州藩に荷担したとして禁門の変で失脚しました。王政復古後は新政府の総裁となり戊辰戦争では東征大総督に就任して江戸城を無血開城させ、明治10年(1877年)の西南戦争では征討総督として出征し戦後は陸軍大将、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任しました。

まち旅(旅行、観光)の記録

まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。

まち旅(旅行、観光)の記録
住所
東京都港区六本木
アクセス
地下鉄大江戸線、日比谷線「六本木駅」、千代田線「乃木坂駅」
営業時間
7:00~23:00
料金
無料
地図