まいぷら

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芝と増上寺

東京都港区の旅行で訪れた観光名所、増上寺

東京タワーがある芝は、都心ながら緑あふれるエリアです。江戸時代に徳川家の菩提寺である寛永寺の広大な敷地が広がり繁栄を極めましたが、明治時代以降は規模が縮小して芝公園や東京プリンスホテルなどになりました。これらの敷地内にも増上寺の遺構が残り、かつての増上寺の繁栄が感じられます。

芝丸山古墳

芝の地域には海上交通や流通を掌握していた有力者が支配していました。4世紀後半に造営された芝丸山古墳は、こうした人びとの有力者の墓と考えられ、円筒埴輪や須恵器の破片が発掘されています。

芝丸山古墳

東京都港区の芝丸山古墳都内最大級の前方後円墳です

芝丸山古墳

東京都港区の芝丸山古墳明治時代に古墳として認定されました

江戸時代の開発で埋葬施設が破壊されていたため死者と副葬品が出土していませんが、全長106メートルの都内最大規模の前方後円墳と特定されています。

増上寺

明徳4年(1393年)に酉誉聖聰上人により江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)に創建された増上寺は、慶長3年(1598年)に芝に移されて徳川家の菩提寺として15代将軍のうち6人の将軍(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)の墓所が設けられました。

増上寺旧方丈門(黒門)

東京都港区の増上寺旧方丈門(黒門)寛永寺の正門でした

増上寺本堂

東京都港区の増上寺本堂千代田区から移設されました

増上寺は、徳川家の厚い保護を受けて17世紀中頃には120以上の堂宇、100軒を越える甍ぶきの学寮が並ぶ巨大寺院になりました。増上寺安国殿の裏手にある徳川将軍家墓所鋳抜門は、6代将軍徳川家宣の霊廟(文昭院霊廟)の中門を移築したものです。享保元年(1716年)に建立された旧有章院霊廟二天門は、7代将軍徳川家継の院号有章院を冠する門で、両脇には広目天と多聞天の二天が祀られています。

徳川将軍家墓所・鋳抜門

東京都港区の徳川将軍家墓所・鋳抜門6代将軍徳川家宣の霊廟の中門でした

有章院霊廟二天門

東京都港区の有章院霊廟二天門7代将軍徳川家継の霊廟を守ります

増上寺を参拝する徳川将軍家は、御成門を使用して寺院に入りました。御成門は関東大震災や戦災で焼けることなく現存し、明治25年(1882年)に東京プリンスホテルの敷地内に移築されました。

増上寺御成門

東京都港区の増上寺御成門増上寺の裏門で将軍が参拝するときに使用しました

増上寺三解脱門

東京都港区の増上寺三解脱門東京都内に現存する最も古い木造建築です

明治時代になると敷地は縮小しましたが、太平洋戦争前までは日光東照宮に引けを取らない壮大な寺院群でした。昭和20年(1945年)の東京大空襲でそのほとんどが焼失しましたが、元和8年(1622年)に建造された三解脱門は現存して都内最古の木造建築となりました。

芝離宮庭園

4代将軍徳川家綱の老中大久保忠朝は、延宝6年(1678年)に芝にある葦が茂る将軍家の鷹場を与えられました。大久保忠朝は屋敷と庭園を造営し楽寿園と名付けました。これが現在の芝離宮庭園で、この頃から海水を庭園に引き入れた潮入の池を造営しています。大久保忠朝は元禄11年(1698年)に家督を大久保忠増に譲り楽寿園に隠居しました。

芝離宮庭園

東京都港区の芝離宮庭園大久保忠朝が造営した庭園です

芝離宮庭園

東京都港区の芝離宮庭園東京湾の海水を庭園に引き込みました

大久保忠真は文政元年(1818年)に老中となり、上屋敷は江戸城近くに移されて楽寿園を手放しました。この地は堀田氏を経て文政6年(1823年)に御三卿の清水家の下屋敷となりました。清水斉彊は紀伊徳川家の養子となり、紀伊徳川家の敷地となる楽寿園は芝御屋敷と呼ばれるようになりました。

芝離宮庭園

東京都港区の芝離宮庭園東京湾の潮汐で景色が変わりました

芝離宮庭園

東京都港区の芝離宮庭園現在は高層ビルに囲まれた庭園になりました

明治4年(1871年)に芝御屋敷は有栖川宮家の所有となり、明治8年(1875年)に皇室が買い上げて英昭皇太后の非常時御立退所となりました。これにより翌年には芝離宮と命名され、明治24年(1876年)には洋館が建てられて迎賓館として使用されました。

芝公園

明治6年(1873年)になると、太政官布達により上野、浅草、深川、飛鳥山とともに増上寺の敷地を整備して芝公園が造営されました。

芝公園

東京都港区の芝公園広々とした公園です

旧台徳院霊廟惣門

東京都港区の芝公園二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門でした

12万平方キロメートル以上ある芝公園には、秀忠の霊廟の惣門として寛永9年(1632年)に建立された旧台徳院霊廟惣門が残ります。台徳院は二代将軍徳川秀忠の院号で、この奥に霊廟がありましたが戦災で門だけが残されています。

東京タワー

太平洋戦争が終わり復興が進むと、テレビ局は自前のアンテナ塔を建てて電波を発信していました。複数のアンテナが乱立するのは効率的ではないため、大きな塔を建ててアンテナ塔を纏める必要がありました。建築家の内藤多仲は当時世界一高い電波塔を設計し、その巨体を支える鉄骨は昭和28年(1953年)の朝鮮戦争の休戦協定で払い下げられたアメリカの戦車等の良質な鉄を採用しました。

東京タワー

日本電波塔株式会社東京のシンボルとして聳えます

東京タワー

東京タワーメインデッキの上にトップデッキがあります

昭和32年(1957年)に着工した東京タワーは、全て手作業ながら1年半後の短期間で完成しました。完成した東京タワーは当時世界で最も高い324メートルのエッフェル塔よりも高い333メートルを誇りました。橋脚の間隔は88メートルあり、直径2メートルの杭が橋脚1本あたり8本打ち込まれて巨体を支えています。高さ150メートルと250メートルに設けられた展望台からは、東京の壮大な景色を全方位パノラマで楽しむことができます。

東京夕暮れ

東京タワーからの眺望東京タワーからの眺望です

東京夜景

東京タワーからの眺望東京タワーからの夜景です

頑丈な東京タワーは災害の多い日本でも倒壊することは無く電波を発信し続けていますが、このような安定した運用は放送が終了した深夜に職人が手作業でメンテンナンスを行い、5年ごとに職人が刷毛で塗装して保守した努力の賜物です。

まち旅(旅行、観光)の記録

まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。

まち旅(旅行、観光)の記録
住所
東京都港区芝公園
アクセス
大江戸線なら大門、御成門が最短。JRなら浜松町駅
営業時間
特になし
料金
無料(霊廟内500円)
地図