根津/駒込
江戸時代初期の駒込や根津の地域は、板橋宿へと向かう中山道が貫通している農村地帯でした。根津は根津権現社が遷座して門前町として栄え、武蔵野台地の東部にある駒込は寺院や武家屋敷が置かれ、近隣に住む植木職人たちが染井吉野を生み出しました。
根津
甲府藩主松平綱重の屋敷が置かれていた根津は、千駄木から根津権現社が移されて根津と呼ばれました。根津権現社が遷座してから門前町として栄え、訪れる多くの参拝客を相手とした遊郭が置かれました。本郷に東京大学が設立されると遊郭は移されて静けさを取り戻しました。
根津神社
根津は5代将軍徳川綱吉の兄で甲府藩主の松平綱重の屋敷地がありました。宝永3年(1706年)に甲府松平家の産土神である根津権現社が千駄木から遷されて根津と呼ばれるようになりました。周囲には水戸藩や加賀藩の屋敷があり、そこに出入りする職人たちが居を構え門前町を形成していきました。
戦災等から被害を免れました
千駄木から遷されて創建しました
根津神社は徳川家宣が生まれた場所にあたり、胞衣塚や産湯井戸などが残されています。不忍通りと言問通りの交差する場所に設置されていた一の鳥居は、文政6年(1823年)に竜巻により倒壊したものの、関東大震災や東京空襲などの被害を受けず、創建されたままの建造物が数多く残されています。
根津遊郭
根津は根津権現社の門前町として賑わい、伊勢屋や大黒屋など多数の遊女屋があり岡場所(非公認の遊廓)が形成されました。天保の改革の遊女取払令により遊郭が取り払われましたが、万延元年(1860年)の吉原遊郭の火災で根津に仮宅が設けられて遊女が活動するようになりました。明治時代でも活動は行われ、明治12年(1879年)には90軒以上の遊女屋がありましたが、近隣の本郷に東京大学が開設されたため遊郭は深川に移転しました。
駒込
武蔵野台地の東部にある本郷台地は、江戸城に近く日光御成街道が開かれるなど交通の便が良い立地から寺社や武家屋敷が置かれていました。六義園は柳沢吉保が造営した回遊式築山泉水庭園であり、近隣に住む植木職人たちによりソメイヨシノが生み出されました。
六義園と柳沢氏
5代将軍徳川綱吉の使用人である柳沢吉保は、元禄8年(1695年)に加賀藩下屋敷跡地を与えられ六義園を造営しました。元禄15年(1702年)に庭園と下屋敷が一通り完成すると綱吉が頻繁に来るようになり、その回数は記録されているだけで58回もありました。
柳沢吉保が造営した大名庭園です
秋になると紅葉が色づいてが美しいです
明治11年(1878年)に三菱財閥創業者の岩崎彌太郎が六義園を購入して荒れた庭園を整備して別邸とし、岩崎久彌の本邸・別邸となり、のちに幣原喜重郎が一時仮住まいとしました。その後は東京市に寄贈され一般公開されるようになり造園時の面影を残したまま今日に至ります。
高島秋帆墓所
幕末に日本近海で外国船が来航するようになると、幕府は西洋式の高島流砲術を創始した高島秋帆を長崎から江戸に呼び寄せました。天保12年(1841年)に高島秋帆は、武州徳丸ケ原(板橋区高島平)で洋式訓練や実弾射撃を行い藩士に砲術を教授しました。翌年に高島秋帆は幕府を中傷した罪により投獄され、弘化3年(1846年)から岡部藩の預かりの身となりました。
大円寺に葬られました
高島流砲術を創始しました
嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航すると、幕府は近代兵学の必要性に迫られて高島秋帆を赦免しました。これ以降、鷹島秋帆は幕府に仕えて講武所教授方頭取や講武所奉行支配などを務め、慶応2年(1866年)に小石川で死去すると文京区大円寺に葬られました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒113-0021 東京都文京区本駒込6丁目16−3
- アクセス
- JR駒込駅から徒歩10分
- 営業時間
- 9:00~17:00(年末年始は休園)
- 料金
- 300円
- 地図