大塚
台地と谷が入り組んだ地勢の大塚は、明治時代まで農村地帯でした。太田道灌が築いた物見塚や古墳と言われる大きな塚から名付けられたと言われます。大塚は第二次世界大戦でも戦災を免れたことから、貴重な下町の風景が残されています。
大塚先儒墓所(儒者捨場)
江戸幕府を開いた徳川家康は、儒学者林羅山らの影響により国の思想として儒教を採用しました。湯島には昌平坂学問所が開設して儒教を基盤とした朱子学を教え、目上を尊重し士農工商の身分制度を明らかにした考え方を定着させていきました。
吹上稲荷神社で鍵を借りて入ります
敷地のあちこちに儒教式の墓が並びます
寛文10年(1670年)に林羅山門下の人見卜幽軒は、自身の遺体を邸宅内に埋葬しました。やがて木下順庵、室鳩巣、古賀精里、柴野栗山、尾藤二洲などの高名な儒学者も埋葬されるようになり、64基の儒教式墓地が形成されて大塚先儒墓所となりました。儒葬は遺体を墓地に運び土葬を行うため、墓地に運びこまれる姿を見た仏教徒から儒者捨場と表現されました。
護国寺
天和2年(1682年)に5代将軍徳川綱吉は、生母の桂昌院の発願を受けて幕府の高田薬園の地に護国寺を創建しました。本尊は桂昌院の念持仏で天然琥珀で刻まれた如意輪観世音菩薩像を本尊として祀り、元禄10年(1697年)に新たな観音堂が建立されると、旧観音堂は元禄14年(1701年)に大師堂として移築されています。
桂昌院の念持仏が祀られます
真言宗開祖の弘法大師を祀ります
明治時代を迎えて幕府の後ろ盾を失うと護国寺は経済的に苦境に陥り、大部分の土地は新政府が管理して明治6年(1873年)に土地の一部を皇族のための墓地が造営されました。さらに日清戦争や日露戦争の戦死者を葬る音羽陸軍埋葬地も置かれました。こうした流れで新しい国造りを進めた人物たちも眠るようになりました。
最後の太政大臣でした
早稲田大学を創設しました
幕末の尊王攘夷運動の中心的な役割を果たした公家出身の三条実美は明治24年(1891年)に死去して護国寺に埋葬され、早稲田大学の前身となる東京専門学校を設立し、内閣総理大臣も務めた大隈重信は大正11年(1922年)に没して護国寺の大隈家墓所に埋葬されています。このほか、山県有朋、大倉財閥の設立者大倉喜八郎、三井財閥の総帥団琢磨、安田財閥の祖安田善次郎などの政治家や実業家などの墓も設けられています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒112-0012 東京都文京区大塚5丁目40−1
- アクセス
- 東京メトロ護国寺駅から徒歩で1分
- 営業時間
- 特になし
- 料金
- 参拝無料
- 地図