小石川
大名屋敷・武家屋敷や寺社が多数置かれていたほか中山道沿いや大きな寺社の門前では商業が発展しました。水戸徳川家の小石川屋敷は、明治時代になり東京砲兵工廠となりましたが、庭園部は残されて小石川後楽園として開放されています。昭和初期になると東京砲兵工廠は九州小倉に移転して、その跡地に後楽園球場ができました。
小石川後楽園
寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である徳川頼房が中屋敷に京都風の庭園の整備を始め、水戸藩2代藩主徳川光圀が朱舜水の意見をとり入れて儒教の影響を入れて、京都風と中国風が調和した小石川後楽園を完成させました。完成した回遊式築山泉水庭園は随所に中国の名所の名前をつけた景観を配しています。
江戸時代初期に造営された大名庭園の一つです
中国の神仙思想を表す島が大泉水に浮かびます
初代水戸藩主徳川頼房は、京都から庭師を集めて神田上水を引入れて京都風の庭園を造営しました。ここに2代藩主徳川光圀は中国の儒学思想を取り入れて、徳川頼房が手掛けた京都風の庭園に馴染むように中国式庭園の要素を取り込んで造園し、庭園で最も特徴的な円月橋は、国内最古の石造アーチ橋の一つで朱舜水の設計と指導により駒橋嘉兵衛が建造しました。
国内最古のアーチ橋の一つです
幅2メートルで庭園を西から東に流れます
徳川光圀は庭園の内部に稲田を造営し、跡継ぎである徳川綱條の夫人に稲を作る大切さと農民の苦労を教えたと言われます。小石川後楽園は大名が嗜むのみならず、教育の場として利用されました。
農業の重要性と厳しさを教えました
基部の石段には空襲で焼けた跡が残ります
明治時代になると大名庭園は悉く破壊されましたが、小石川後楽園は陸軍大臣山県有朋が破壊を阻止して残すことを決めました。やがて太平洋戦争で戦況が悪化すると、昭和20年(1945年)の空襲で唐門などが焼失し、唐門の石段や石積には空襲で焼けた跡が今も残ります。
小石川植物園
5代将軍徳川綱吉の嫡男松平徳松は満11カ月で館林徳川家の家督を継いで藩主となり、承応元年(1652年)に白山御殿と呼ばれる館林藩下屋敷が設けられましたが、天和3年(1683年)に満4歳で夭折しました。将軍徳川綱吉は、貞享元年(1684年)に南麻布の南薬園を廃止して、白山御殿の敷地の一部に小石川御薬園を整備しました。
貞享元年(1684年)に設立しました
徳川吉宗が御薬園を拡張して試作が行われました
8代将軍徳川吉宗は、享保6年(1721年)に御薬園を御殿地全体に拡張し、享保7年(1723年)に施薬院(養生所)が設けられ、享保20年(1735年)には青木昆陽によりサツマイモ(甘藷)の試作が行われました。
明治9年(1875年)の建物です
柴田桂太教授の記念館として設立しています
明治10年(1877年)に東京大学が設立されると附属植物園となり一般にも公開されるようになりました。園内には大正8年(1919年)に柴田桂太教授の記念館が設置され、昭和44年(1969年)に旧東京医学校本館が移設保管されています。
東京ドームシティ
明治時代になると水戸徳川家の上屋敷は新政府が購入し、明治12年(1879年)に東京砲兵工廠が置かれました。大正12年(1923年)の関東大震災で東京砲兵工廠は被害を受け、昭和10年(1934年)までにその機能を九州小倉に移転させました。この跡地は昭和12年(1937年)に後楽園球場が建造され、昭和9年(1934年)に日本で初めて誕生したプロ野球チーム大日本野球倶楽部(現巨人軍)が本拠地としました。
後楽園球場が東京ドームに代わりました
東京ドームの周囲に商業施設が整備されています
太平洋戦争に突入すると、昭和18年(1943年)に球場は高射砲の陣地となり、グラウンドはジャガイモなどが栽培されました。昭和20年(1945年)に第二次世界大戦が終戦を迎えるとGHQに接収されましたが、翌年には解除されました。昭和24年(1949年)には球場に隣接して都内初の競輪場が開設し、昭和30年(1955年)には後楽園遊園地が開園しました。昭和62年(1987年)に後楽園球場は廃止され、翌年に東京ドームが完成しました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒112-0004 東京都文京区後楽1丁目6−6
- アクセス
- JR、都営三田線「水道橋」から徒歩10分
JR「飯田橋」から徒歩10分
東京メトロ「後楽園」から徒歩5分 - 営業時間
- 09:00~17:00
- 料金
- 300円
- 地図