上野
東京都台東区上野は、江戸時代に寛永寺が創建してから門前町として栄えました。江戸時代末期の上野戦争で寛永寺境内は焼け野原となり上野恩賜公園が整備されました。上野恩賜公園は近代化の象徴として博覧会が何度となく開催され、日本初の動物園や多くの博物館や美術館が設けられる文化、芸術、学問の町となりました。
上野の発展と寛永寺
上野の地名は戦国時代から使われていた記録はありますが、人口が少ない寂れた地域でした。慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれて伊賀国を本拠地としていた藤堂高虎の屋敷が置かれ、やがて江戸城の北東側の鬼門の抑えとして寛永寺が造営され、寛永寺と下屋が一体に発展していきました。
多くの博覧会が開催されました
江戸時代にも多くの蓮が咲いていました
寛永寺の麓にある不忍池からは忍川が上野の町を横断して隅田川に流れていました。寛永寺表参道を横切る忍川には三本の橋(三橋)が築かれ、中央の一番太い橋は将軍や寛永寺住職の輪王寺宮だけが通行することができました。忍川は明治時代に暗渠となりますが、平成17年(2005年)に石組水路が発見され下町風俗資料館に展示されています。
忍川に組まれていた石垣です
明暦の大火を契機とした火除地でした
明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火では江戸の市街地は焼失し、幕府は火災の延焼を避けるため道路を拡張した火除地を設けます。上野の火除地は現在の上野広小路(当時は下谷広小路)で道沿いには料亭が並び、不忍池の蓮を使った蓮飯が提供されていました。
上野戦争
慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は新政府軍に敗れ、15代将軍徳川慶喜は寛永寺で謹慎しました。幕府派の人たちは彰義隊を結成して将軍を守りましたが、やがて徳川慶喜が江戸を去ると彰義隊は分裂して過激派が立て籠もる反政府の拠点となりました。
徳川将軍家庇護のもと発展しました
上野戦争の彰義隊の犠牲者を弔います
新政府軍は、不穏な動きを見せる彰義隊に対して解散を命じますが、彰義隊はこれに応じないため上野戦争が起こりました。寛永寺に籠る彰義隊は激しく抵抗しますが、新政府軍の最新兵器の前に壊滅して撤退しました。江戸の町は大きな被害はありませんでしたが、上野山は焼け野原となりました。
博覧会の開催と文化・芸術・学問の町の形成
明治6年(1873年)に寛永寺の敷地である上野山は焼け野原となり、その跡地に日本最初の公園である上野恩賜公園が誕生しました。上野恩賜公園では明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会を皮切りに合計3回行われ明治政府の近代化を宣伝しました。また明治40年(1907年)には東京府の主催で東京勧業博覧会が上野恩賜公園で開催され、大正3年(1914年)の東京大正勧業博覧会では不忍池から上野公園まで日本初のエスカレータが設置されました。
上野公園の周囲に博物館などが並びます
明治時代に誕生した日本で最も古い動物園です
公園内には常設の博物館、動物園、音楽学校や美術学校が設立し、明治9年(1876年)には西洋レストラン精養軒が開店し、明治15年(1882年)には日本最古の動物園として上野動物園が開園しました。上野は東京国立博物館や国立西洋美術館、東京都美術館など博物館や美術館が最も集まる地域となり、近くには東京大学や東京藝術大学もあるため文化、芸術、学問の町としての性格も持ち合わせることになります。
摩利支天徳大寺とアメヤ横丁
現在のアメヤ横丁には、江戸時初期の寛永年間に慈光院日遣上人により摩利支天徳大寺が創建しました。奉安されている摩利支天像は江戸時代中期の京都で霊夢感得された尊像と伝わり、宝永5年(1708年)に安置されました。明治時代になると、毎月亥の日の御縁日に摩利支天横丁を中心に多くの露店が立ち並び大変な賑わいを見せるようになりましたが、大正12年(1923年)の関東大震災、昭和20年(1979年)の東京大空襲の2度にわたり火災類焼で堂宇は灰燼に帰しました。
昭和39年に再建された本堂です
闇市が商店街へと発展していきました
太平洋戦争が終戦して国内が混乱すると、上野などの駅に戦時中に名誉の負傷をした傷痍軍人が募金活動をし、上野駅から御徒町駅にかけて闇市が形成されるようになりました。闇市は発展して商店街となりアメヤ横丁を形成していきました。町並みの変化に伴い摩利支天徳大寺の移転が検討されましたが、昭和39年(1964)に本堂が再建されました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 東京都台東区上野
- アクセス
- JR上野駅、京成上野駅から徒歩10分圏内
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図