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寛永寺と上野恩賜公園

東京都台東区の旅行で訪れた観光名所、上野恩賜公園

上野公園の愛称で親しまれている上野恩賜公園は江戸時代に東叡山寛永寺の敷地でした。慶応4年(1868年)に起きた上野戦争で新政府軍と彰義隊の戦闘で焼け野原になり、その跡地について蘭医アントニウス・ボードウィンから公園の造営を進言され上野恩賜公園として整備されました。

寛永寺

寛永寺は、寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正により創建された天台宗別格大本山の寺院で、天台宗の総本山である比叡山延暦寺にならい東の比叡山という意味の東叡山寛永寺と言います。徳川将軍家から篤い庇護を受けた寛永寺はかつて上野恩賜公園一帯を境内とする壮大な寺院で、現在の噴水広場に寛永寺根本中堂があり、36ある子院は現在の上野駅の敷地にも広がりました。

上野恩賜公園噴水広場

東京都台東区の上野恩賜公園噴水広場かつて噴水広場に本堂がありました

寛永寺根本中堂

東京都台東区の寛永寺根本中堂噴水広場の北西方向に再建されています

戊辰戦争で焼失した寛永寺は噴水広場の北西側に本堂である根本中堂が再建されています。寛永寺は6人の将軍が眠る徳川歴代将軍霊廟があり、5代将軍徳川綱吉の廟所を守る大慈院にある葵の間は、15代将軍徳川慶喜が天皇への恭順の姿勢を示そうと謹慎生活に入りました。

常憲院霊廟勅額門

東京都台東区の寛永寺にある常憲院霊廟勅額門門の奥に徳川綱吉の霊廟があります

了翁禅師塔碑

東京都台東区の寛永寺にある了翁禅師塔碑薬の売り上げで寛永寺などに文庫を建てました

現在の寛永寺境内には了翁禅師塔碑などがありました。了翁禅師は「夢で製法を得た錦袋円」という薬の売り上げで不忍池畔に公開図書館(勧学寮)を造営、寛永寺、瑞聖寺に勧学寮や文庫を建て、全国24寺に大蔵経を寄進しています。

上野恩賜公園の神社仏閣

上野恩賜公園は江戸時代の寛永寺境内にあたるため寛永寺の寺院や上野東照宮が現存しています。徳川家康を祀る上野東照宮は寛永4年(1627年)に創建し、3代将軍徳川家光が遠く日光まで参拝できない人のために慶安4年(1651年)に建替えました。本殿や唐門などは当時のまま現存し国の重要文化財に指定されています。

上野東照宮唐門

東京都台東区の上野恩賜公園にある上野東照宮唐門三代将軍家光が改築したものです

旧寛永寺五重塔

東京都台東区の上野恩賜公園にある旧寛永寺五重塔上野動物園の敷地内に残されています

上野東照宮から見える旧寛永寺五重塔は寛永8年(1631年)に建てられました。現在は上野動物園遊園地の敷地内にあり東京都が管理しています。東照宮ぼたん苑の近くには上野大仏と大仏パゴダがあります。

大佛パゴダ

東京都台東区の上野恩賜公園にある大佛パゴダ観音様を祀るパゴダ(仏塔)です

上野大仏

東京都台東区の上野恩賜公園にある上野大仏顔だけが残された上野大仏です

上野大仏は顔だけの大仏ではありますが、かつては6メートルほどの体のある大仏でした。大仏には覆屋があり保護されていましたが明治維新で覆屋が解体されました。関東大震災では首が折れてしまい第二次世界大戦では供出令により胴体は供出されて顔だけが残りました。

徳川慶喜の謹慎と彰義隊

慶応4年(1868年)に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍は天皇の軍証である錦の御旗を賜りこれを掲げました。朝敵とされた幕府軍は戦意を喪失して敗れ、15代将軍徳川慶喜は寛永寺に謹慎して恭順の意を示しました。旧幕府派の人びとは渋沢成一郎を隊長、天野八郎を副隊長として彰義隊を結成して徳川慶喜を護衛したため、寛永寺は彰義隊は2千名が籠る反政府の拠点となりました。やがて江戸城が無血開城すると徳川慶喜は江戸を退去し、残された彰義隊は大義を失い分裂し、天野八郎が指揮する過激な集団と化しました。

西郷隆盛

東京都台東区の上野恩賜公園にある西郷隆盛新政府軍を指揮していました

大村益次郎

東京都千代田区にある大村益次郎像天才軍略家として上野戦争の作戦を立てました

彰義隊は江戸庶民から人気が高く、新参の新政府軍よりも彰義隊を支援していました。寛永寺別当の覚王院義観は彰義隊の隊士に新政府への敵意を扇動し、彰義隊は新政府軍と小競合いを繰り返すようになりました。新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟は彰義隊の解散を試みますが失敗に終わり、このような状況を打開するため新政府軍は大村益次郎を江戸に派遣して彰義隊を殲滅することにしました。

上野戦争の勃発

大村益次郎は新政府軍の中では孤立していましたが、大監察使として三条実美が到着すると後ろ盾を得て討伐作戦を推進していきます。新政府軍は奥羽越列藩同盟の討伐のため兵を派遣しており、彰義隊討伐に十分な兵を集める余裕はありませんでした。そこで薩摩の海江田信義は夜襲を提言しますが、大村益次郎は夜間の先頭の混乱で江戸の町が焼かれることを恐れ、白昼での戦闘を選択します。

上野恩賜公園

東京都台東区の上野恩賜公園上野恩賜公園の入口が激戦地です

寛永寺黒門

東京都荒川区の寛永寺黒門荒川区円通寺に移築された黒門には弾痕が残ります

上野戦争が開始すると、正面にあたる黒門口には薩摩藩や肥後藩、側面の清水門には肥前藩、備前藩、津藩、背面の谷中門には長州藩や大村藩が配置され、逃げ道を封鎖しないよう北東の根岸方面には兵を配置しませんでした。早朝に戦闘が始まると黒門口で激しい戦闘が繰り広げられ、彰義隊が善戦して一進一退の状況が続きました。午後になり現在の東京大学付近に布陣していた肥前軍がアームストロング砲で寛永寺を砲撃すると新政府軍が優勢に転じました。

彰義隊戦死者碑

東京都台東区の彰義隊戦死者碑上野公園にある彰義隊戦士の慰霊碑です

彰義隊戦士の墓

東京都台東区の彰義隊戦士の墓荒川区円通寺に祀られている彰義隊戦士の墓です

黒門口を突破した新政府軍は寛永寺境内に突入して乱戦になり、彰義隊は寛永寺本堂で態勢を立て直そうとしましたが各方面から新政府軍が流れ込んだため壊滅しました。彰義隊は北東の包囲されていない根岸方面から退却し、新政府軍により寛永寺は占領されました。

上野恩賜公園の造営

上野戦争の終結により江戸は完全に新政府の支配下となりましたが、上野戦争で寛永寺境内は焼け野原となりました。その跡地についてオランダ人医師のアントニウス・ボードウィンが、欧米では古戦場を公園にするとの進言がなされたため、旧寛永寺跡地に上野恩賜公園が整備されることになりました。

旧東京音楽学校奏楽室

東京都台東区の上野恩賜公園にある旧東京音楽学校奏楽室上野公園の敷地内に歴史的建造物があります

上野恩賜公園

東京都台東区の上野恩賜公園春になると桜が咲き露店が並び多くの人で賑わいます

上野恩賜公園は多くの桜が植えられ、春になると桜の名所として露店などが並ぶ憩いの場となりました。敷地内には博物館や美術館などが建ち並び、文化、芸術、科学などを学ぶことができる地域へと変貌しました。

まち旅(旅行、観光)の記録

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住所
東京都台東区上野公園
アクセス
JR上野駅から徒歩5分圏内
営業時間
24時間
料金
無料
地図