霊巌寺と松平定信墓
霊巌寺は寛永元年(1624年)に霊巌雄誉上人が埋立地の霊巌島に創建した浄土宗の関東十八檀林の一つの寺院です。境内には江戸六地蔵の一つで東京都指定有形文化財に指定されている地蔵像があります。また、国の史跡に指定されている松平定信の墓があり、この地が白河と呼ばれることになります。
霊巌寺
霊巌寺は浄土宗の関東十八檀林の一つで霊巌雄誉上人が茅場町付近に草庵を結んだことが始まりです。次第に草庵に参拝者が増えると寺院の敷地が手狭になり、隅田川河口の向井将監忠勝の下屋敷を拝領して埋立てを行い霊巌島を造営して寛永元年(1624年)に霊巌寺を創建しました。明暦3年(1657年)に明暦の大火で江戸の大部分が焼失してしまい霊巌寺も大火により焼失してしました。明暦の大火による区画整理を幕府が進める中で替地を与えられ万治元年(1658年)に現在地に移転しました。
深川は関東大震災と東京大空襲でほぼ全域を焼失する大きな被害を受けました。関東大震災では深川地区で死者・行方不明者が10万人以上にのぼり、その霊を諫めるために多くの人が寄進した地蔵菩薩が安置されています。
関東大震災の慰霊のために安置されました
江戸六地蔵の第五番にあたります
霊巌寺には江戸六地蔵の一つである地蔵菩薩が祀られています。江戸深川の地蔵坊正元が不治の病になり病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ治癒したことから京都の六地蔵にならい造立した地蔵菩薩で江戸市中6か所に安置されています。霊巌寺の地蔵菩薩は第5番として享保2年(1717年)に製作されたもので東京都指定有形文化財になります。
江戸六地蔵は、江戸深川の地蔵坊正元が宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立したものです。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵にならい造立したものです。
- 第1番
- 品川寺(東京都品川区南品川三丁目5-17)
- 第2番
- 東禅寺(東京都台東区東浅草二丁目12-13)
- 第3番
- 太宗寺(東京都新宿区新宿二丁目9-2)
- 第4番
- 真性寺(東京都豊島区巣鴨三丁目21-21)
- 第5番
- 霊巌寺(東京都江東区白河一丁目3-32)
- 第6番
- 永代寺(現:東京都江東区富岡一丁目15-1)
江戸六地蔵は旧東海道、奥州街道、甲州街道、旧中山道、水戸街道、千葉街道の6つの街道に建立されましたが、このうち永代寺の地蔵菩薩については廃仏毀釈で取り壊されていて今は見ることはできません。
清澄白河の地名と松平定信墓所
霊巌寺には今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓があり、中でも11代将軍徳川家斉の頃に老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓が有名です。昭和3年(1928年)に松平定信の墓は国の指定史跡となり、大正12年(1923年)の関東大震災による区画整理で町名を変更するときに渋沢栄一が東京市に要望して昭和7年(1932年)に松平定信の白河藩にちなみ清澄白河と名付けられました。
松平定信(1759~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫にあたり将軍候補でもありましたが、白河藩(現在の福島県白河市周辺)松平家に養子に出されます。白河藩藩主になると天明の大飢饉が起こり餓死者を出さない政策を行い、藩の財政を立て直して名君と呼ばれました。
その功績を買われて江戸幕府の老中トップとなり政治の腐敗を正し、飢饉による世の中の混乱を収めるため寛政の改革を断行しました。幕府の緊縮財政、学問・風俗の取締り、飢饉に備えての米の備蓄などを行いましたが、将軍家斉をはじめ武士や庶民からも厳しすぎる引き締めに反発の声が多く上がり失脚しました。
寛政の改革を行った松平定信は徳川吉宗の孫にあたります。徳川吉宗は享保の改革を行い質素倹約を徹底し幕府の財政を再建しますが吉宗が死去すると徳川家重や徳川家治が将軍になり田沼意次が実権を握りました。徳川家治の子が若くして死去すると次期将軍候補の一人であった松平定信は田安家から白河藩に養子として出されて将軍になることはできませんでした。
松平定信はのちに白河藩主となり江戸時代最大の飢饉と言われる天明の飢饉で餓死者を一人も出さない手腕を発揮します。当時幕府の政治を主導していた田沼意次を批判し田沼意次が失脚すると松平定信が老中に就任します。松平定信は田沼意次が行う貨幣経済による利益中心の政治を拒否し、祖父の徳川吉宗が行った享保の改革を手本に寛政の改革を行います。
鉄の門で内部に立ち入ることはできません
国の史跡に指定されている大きな墓地です
打ち壊しにより秩序が乱れていた時代、松平定信は貧民救済のため石川島人足寄場で職業訓練を行い七分積金令で非常事態に備える政策を行いました。また、武士の窮乏を救うため棄捐令により借金を帳消しにしています。学問の面では湯島聖堂を昌平坂学問所として朱子学のみを教えることにし、外交面では蝦夷地開発を取りやめてロシアとの緩衝地帯として松前藩に任せています。
田沼意次の貨幣経済を脱却した寛政の改革は、徳川吉宗の享保の改革と同じく米の流通を重視し、質素倹約を励行した規則に縛られた厳格なもので、田沼意次の貨幣経済で娯楽に興じるようになった民衆から強い反発が起きました。当時の狂歌には「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と残されています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒135-0021 東京都江東区白河1-3-32
- アクセス
- 都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線「清澄白河」駅下車 徒歩3分
- 営業時間
- 参拝自由
- 料金
- 参拝無料
- 地図