下目黒と目黒不動尊
下目黒の地域は江戸時代に目黒不動尊として親しまれる瀧泉寺の門前町が形成され江戸町中から目黒不動までの道は目黒道と呼ばれていました。大圓寺の隣にある瀧泉寺に続く坂道は多くの行人が修行に訪れたため行人坂と呼ばれ坂上の茶屋には多くの参拝者が立ち寄りました。
瀧泉寺(目黒不動尊)
目黒不動尊で親しまれている瀧泉寺は、平安時代初期の大同3年(808年)に天台座主第三祖慈覚大師圓仁(慈覚大師)により創建されました。慈覚大師が伝教大師最澄のもとへ赴く途中、この地で不動明王の霊夢を見てその尊容を自ら刻んだのが本尊の目黒不動明王になり関東最古の不動霊場として木原不動尊(熊本県)成田不動尊(千葉県)と並ぶ日本三大不動の一つに数えられます。
昭和37年(1962年)に再建された朱塗りの楼門です
慈覚大師が独鈷を投げたところから泉が湧きました
正面階段左手には独鈷の滝があります。独鈷とは人の煩悩を打ち砕く仏具で、慈覚大師が寺を建てるときに敷地を示すために独鈷を投げたところ泉が湧き出して滝になったと云います。現在も龍の口から清水が湧き出ています。独鈷の滝の隣にある前不動堂は江戸中期の仏堂建築として貴重で東京都指定有形文化財になります。
東京都指定有形文化財です
平安時代前期に創建した日本三大不動の一つです
瀧泉寺は江戸時代に将軍家の保護を受けて繁栄しました。江戸庶民も不動信仰が篤く参詣行楽地として賑わいました。西郷隆盛が主君島津斉彬の健康を願い参詣したことでも有名です。境内には愛染明王が安置され不動明王の眷属である八大童子が祀られる山などがあり、瀧泉寺裏手には天和3年(1683年)に建造された大日如来が祀られています。
天和3年(1683年)に建造されました
甘藷(さつまいも)の栽培を促進しました
寺の裏手にある墓地には江戸時代の蘭学者で儒学者の青木昆陽の墓があります。青木昆陽は甘藷(さつまいも)が荒れた土地や天候不順に強いことから八代将軍徳川吉宗に栽培を増やすように進言しました。このことから甘藷先生と呼ばれていました。青木昆陽の墓は国の指定史跡になります。
大圓寺
大圓寺は、寛永元年(1624年)に出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりと云われています。明和9年(1772年)に大圓寺で火災が起こり江戸市中628町に延焼する大火となりました。この大火は大圓寺の前にある行人坂から名前を取り目黒行人坂大火と呼ばれ、振袖大火、車町大火と並ぶ江戸三大大火の一つになります。この大火のために年号が明和から安永に改められています。大圓寺は火災で焼失しましたが幕末に薩摩藩島津家の菩提寺として再興し現在に至ります。
目黒行人坂大火の火元です
目黒行人坂大火の供養で作られました
境内には江戸三大大火の一つである目黒行人坂大火の慰霊のために作られたと言われる東京都指定有形文化財の大圓寺石仏群(五百羅漢石像)が安置されています。この石仏群の前にあるとろけ地蔵は江戸時代に品川沖で漁師の網にかかり引き揚げられてこの地に安置されました。悩みをとろけさせ解消してくれる地蔵尊です。
悩みを溶けさせる地蔵です
行人坂を敷石で供養した記録が残る石碑です
行人坂敷石造道供養碑は164センチある石碑で梵字が刻まれています。行人坂を利用する行者が悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊や浅草観音に参詣し通行人から受けた報謝を資金として、元禄16年(1703年)に西運を施主として敷石の道を造りました。行人坂開発の歴史を知るうえで貴重な資料として目黒区文化財に指定されています。
大鳥神社
大鳥神社は目黒区最古の神社で西暦71~130年に国常立尊を祀る社があり大同元年(806年)に社殿が造営されて下目黒の鎮守となりました。現在の社殿は昭和37年(1962年)に完成したものです。関東を中心として開催される酉の市は、鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として知られ、大鳥神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835年)に当地の農家が浅草から取り寄せた品物を販売したことが始まりと云われます。
目黒区最古の神社です
天然記念物のオオアカガシが生育していました
大鳥神社の境内には樹高16メートル、幹回り1.6メートルのオオアカガシがあり昭和38年(1963年)に東京都天然記念物に指定されましたが、昭和50年代から衰退し始めて数回樹勢回復事業が施されましたが、平成14年(2002年)に枯死が確認され後継樹育成も試みられましたが、残念ながら平成24年(2012年)に指定解除になりました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 東京都目黒区下目黒
- アクセス
- JR目黒駅から徒歩10分圏内
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図