中里貝塚

中里貝塚は、縄文時代中期から後期にかけて当時の海岸線に沿うように形成された貝塚です。幅100メートル、長さ500~1キロ、高さも最大で4.5メートルある国内最大級の巨大な貝塚です。大量の貝は干貝にして交易に使われたと考えられるため、中里貝塚は縄文時代の水産加工場と考えられています。
縄文海進と中里貝塚の形成
約4千年前の縄文時代は、縄文海進と呼ばれる海水面の上昇により海岸線が内陸に入り込んでいました。現在よりも海面が約3メートル高いと言われ、中里貝塚がある北区のあたりも海水が侵入して奥東京湾と呼ばれる内湾が形成されていました。
周囲が宅地に囲まれています
最大で4メートルを超える貝層があります
武蔵野台地縁辺部に住んでいた縄文人は、春になると浜辺に降りて来て貝を採集して身を取り出し貝殻を海に捨てました。この行為が蓄積された結果、貝塚が形成されたと考えられています。中里貝塚から出土した貝の量は一つのムラの消費量をはるかに超えているため、中里貝塚は縄文時代の水産加工場として、干貝にして交易に使われていたと考えられています。
中里貝塚の特徴
中里貝塚は、幅100メートル、長さ500~1キロある国内最大級の巨大な貝塚です。貝層は4メートルを超えますが、貝種はハマグリにほぼ限定されます。土器、石器などの道具類や骨類などはほとんど出土していないため、日常生活のゴミ捨て場とは性質が異なる貝塚です。
貝層は地面に埋め戻されています
焼石で水を沸騰させて貝をむき身にしました
中里貝塚では共同作業で貝を加工処理していたと考えられています。発掘による炭化物や焼石の発見から、採取した貝は窪めた地面に焼石を入れて沸騰させるストーンボイリングで調理してむき身にされたと考えられています。春から夏にかけて大型のハマグリを選んで採集、干し貝に加工して内陸の村々との交易に用いられていたと考えられています。
中里貝塚の価値
中里貝塚の存在は早くから知られていましたが、大森貝塚の発掘から9年後の明治19年(1886年)に白井光太郎が中里村介塚として学界に初めて報告しました。鉄道敷設や宅地化で次第にその存在も忘れられましたが、昭和33年(1958年)に和島誠一による調査が行われ貝層が確認されました。
中里貝塚は広場が3か所残されています
明治29年(1896年)のスケッチに貝塚が描かれます
昭和58~59年に中里貝塚周辺で行われた調査でも、中里貝塚の南側にある中里遺跡で多数の土器や魚網のおもり、集石遺構、丸木舟などが発見され、中里貝塚の縄文人の営みの痕跡が発見されています。このように極めて貴重な中里貝塚は平成12年(2000年)に国の史跡に指定されています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒114-0016 東京都北区上中里2丁目2
- アクセス
- JR尾久駅から徒歩5分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
- 地図