まいぷら

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武田氏の歴史

室町期
甲斐国は守護代の跡部氏や国人勢力の台頭により武田家が弱体化。
文明4年(1472年)
武田信昌は、跡部氏を排斥し守護権力を回復するも河内領主の穴山氏や郡内領主の小山田氏などの新勢力が台頭。
明応元年(1492年)
信昌の嫡男・武田信縄と信昌が後見する次男油川信恵が対立。甲斐一国は乱国状態。
永正2年(1505年)
武田信昌が死去
永正4年(1507年)
武田信縄の病死により武田信虎が14歳で家督を継承
永正5年(1508年)
油川信恵は弟の岩手縄美、栗原昌種や小山田弥太郎らを味方にして信虎に対抗するも坊峰合戦(笛吹市境川村)において信恵らが戦死、武田信虎による武田宗家が統一。
永正6年(1509年)
郡内へ侵攻
永正7年(1510年)
小山田氏を従属。小山田信有に実妹を嫁がせて講和、勝沼には武田信虎の実弟勝沼信友を配置。甲斐北西部の国衆今井氏を従属する。
永正12年(1515年)
大井信達・信業父子の拠る西郡上野城で合戦。
永正14年(1517年)
今川氏と和睦。
永正17年(1520年)
大井氏と同盟して大井信達の娘を正室に迎える。この大井の方が産んだ子が晴信、信繁、信廉の三兄弟。
永正16年(1519年)
守護所を石和(笛吹市石和町)から甲府へ移し、躑躅ヶ崎館を築き城下町を整備し家臣を集住させる。
大永元年(1521年)
国人領主今井氏や信濃の諏訪氏との争いに加え、駿河の今川氏配下の土方城主福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに西郡まで侵攻し甲府へ迫る。今川勢を飯田河原合戦、上条河原合戦で撃退。要害山城で嫡男晴信が誕生。
大永4年(1524年)
関東における両上杉氏と新興勢力の北条氏の争いに介入し、都留郡の甲相国境付近では相模国境で北条勢と争い
大永6年(1526年)
梨の木平で北条氏綱勢を破るも北条方との争いは一進一退を繰り返す。
大永7年(1527年)
佐久郡出兵。駿河の今川氏親と和睦。
享禄元年(1528年)
信濃諏訪を攻め、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満・頼隆に敗退。
享禄4年(1531年)
諏訪氏の後援を得て甲斐国人栗原兵庫・飯富虎昌らが反旗。今井信業・尾張守らを撃破、河原部合戦(韮崎市)で国人連合を撃破。
享禄3年(1530年)
上杉朝興の斡旋で上杉憲房の後室を側室とする。
天文4年(1535年)
万沢(南巨摩郡富沢町)で今川氏と合戦。北条氏が籠坂峠を越え山中(南都留郡山中湖村)へ侵攻、小山田氏や勝沼氏が敗北。諏訪氏と和睦。
天文5年(1536年)
今川氏輝が死亡して花倉の乱が起こり、善徳寺承芳(今川義元)を支援。
天文6年(1537年)
長女・定恵院を義元に嫁がせ、今川氏の仲介により嫡男晴信の室に公家三条家の娘を迎える。今川氏と甲駿同盟を締結。北条氏とも和睦するも甲駿同盟は駿相同盟の破綻を招く(河東の乱)。
天文9年(1540年)
今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させる。三女・禰々を諏訪頼重に嫁がせて和睦。
天文10年(1541年)
武田信虎が嫡男晴信によって駿河に追放される。晴信は武田家家督と守護職を相続する。信濃国諏訪上原城主・諏訪頼重、同じく信濃林城主であり信濃国守護職の小笠原長時が甲斐国に侵攻するも撃退。
天文11年(1542年)
晴信は諏訪領内への侵攻を開始。諏訪頼重・高遠頼継による諏訪宗家を巡る争いに介入して、高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を攻め諏訪を平定。また諏訪頼重、頼高兄弟は甲斐東光寺にて切腹し、諏訪宗家は滅亡する。諏訪領の分割問題から高遠頼継と対立し、高遠軍を小淵沢で撃破。
天文12年(1543年)
信濃国長窪城主・大井貞隆を攻略。
天文14年(1545年)
上伊奈の高遠城に侵攻し高遠頼継が降伏。福与城主・藤沢頼親も降伏。
天文16年(1547年)
志賀城の笠原清繁と上野の上杉憲政の援軍を小田井原の戦いで破り、笠原清繁が討死。分国法である甲州法度之次第(信玄家法)が定められる。
天文17年(1548年)
村上義清と上田原で激突(上田原の戦い)で武田軍は村上軍に敗れて宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失う。武田晴信も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をする。
天文19年(1550年)
小笠原領に侵攻。小笠原長時は林城を放棄して村上義清のもとへ逃走。村上義清の支城である砥石城を攻撃するも大敗を喫し、横田高松や小山田信有らを失う(砥石崩れ)
天文20年(1551年)
真田幸隆の策略で砥石城が落城。
天文22年(1553年)
村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃走。北信を除き信濃をほぼ平定する。
天文22年(1553年)
上杉謙信が信濃出兵を開始し第1次川中島の戦いが始まる。村上義清が北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で武田軍を破り、村上義清は葛尾城奪回に成功する。しかし武田軍は再び北信濃に大軍で侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻める。村上義清は塩田城を捨てて越後国へ逃走。今度は謙信自ら兵を率いて北信濃へ出陣し布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、青柳城を攻める。武田軍は荒砥城に夜襲をしかけ長尾軍の退路を断とうとしたため、上杉軍は八幡まで兵を退く。上杉家の支援を受けて大井信広が謀反を起こも直ちに鎮圧。
天文23年(1554年)
嫡男義信の正室に今川義元の娘を迎え甲駿同盟を強化。また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄が仲介して今川氏真に北条氏康の娘を嫁がせることになり、これにて甲相駿三国同盟が成立。
天文24年(1555年)
第2次川中島の戦い(犀川の戦い)で200日余におよぶ長期間対陣。
天文23年(1554年)
長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせる。
弘治元年(1555年)
信濃国善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返ったため上杉軍は善光寺奪回のため善光寺平北部に出陣。栗田鶴寿と武田氏の援軍は旭山城(長野県長野市)に篭城し、長尾景虎は葛山城(長野県長野市)を築いて入城。武田晴信も川中島へ出陣し犀川を挟んで対峙する。長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず両軍は200日余に渡り対陣することになり、今川義元の仲介で和睦が成立する。
木曽郡の木曾義康・義昌父子が降伏し南信濃を平定。武田晴信の娘を木曾義昌に嫁がせて木曾氏を親族衆として遇することで和睦。
弘治3年(1557年)
第3次川中島の戦い(上野原の戦い)は、武田晴信の北信濃への著しい勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信が決戦を避けたため決着は付かず。
弘治2年(1556年)
真田幸隆が善光寺平東部の尼巌城(長野県長野市松代)を攻略。長尾景虎と不和になった大熊朝秀を調略し反乱を起こさせて越後侵攻を図る。
弘治3年(1557年)
長尾方の前進拠点であった葛山城を落とし、高梨政頼の居城飯山城に迫るたため長尾景虎は信濃へ出陣する。北信濃の武田方の諸城が落とされる。一方、武田軍の支隊が安曇郡の信越国境近くの小谷城(長野県北安曇郡小谷村)を落とし、別方面から長尾軍を牽制する。両軍は上野原(長野県長野市上野)で交戦するが戦線は膠着。
足利義輝の仲裁により武田氏と長尾氏の和睦が実現。これにより武田氏の信濃国支配が幕府により正当化される。
武田晴信は出家し武田信玄となる。
永禄元年(1558年)
信玄は和睦を無視して北信濃へ出陣する。北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(善光寺平北部)を失って弱体化。
永禄4年(1561年)
第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)が発生。川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出す。信玄は川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、長尾軍は犀川・千曲川を渡り善光寺平南部の妻女山で対峙。武田軍の山本勘助と馬場信房は兵を二手に分ける大規模な別働隊の編成を献策し、別働隊に妻女山の長尾軍を攻撃させ、長尾軍が山を下ったところを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし挟撃して殲滅する作戦で「啄木鳥戦法」と名づけられた。深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊が妻女山に向い、信玄率いる本隊は八幡原に鶴翼の陣で布陣するも、上杉軍は動きを察知し夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、猛将・柿崎景家を先鋒に武田軍を襲う。信玄の弟の信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死。一方、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ武田軍の別働隊は八幡原に急行し長尾軍は挟撃する形となったため長尾軍は善光寺に退きます。
永禄7年(1564年)
第5次川中島の戦い(塩崎の対陣)。上杉軍と川中島に布陣し武田軍は塩崎城に布陣し対峙しするも衝突することなく終戦。飛騨国の三木良頼と江馬時盛の争いに、信玄が江馬氏を、輝虎が三木氏を支援し上杉方は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣。信玄は善光寺平南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣するも両軍は撤退。
永禄9年(1566年)
武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功しています。
永禄3年(1560年)
今川義元が、織田信長によって桶狭間の戦いで討たれる。信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻することを計画するが、義元の女婿である嫡男・武田義信とその傅役・飯富虎昌がこれに激しく反対する。
永禄8年(1565年)
飯富虎昌を切腹。穴山信君の弟、信邦も連座して切腹するなど、武田氏家中も親今川派の動揺が起こる。義信を廃嫡し、東光寺に幽閉
永禄10年(1567年)
武田義信死去
永禄11年(1568年)
徳川家康と共同で駿河侵攻を開始。松野山で荻清誉を破り、薩垂山で今川氏真軍を破り今川館へ入る。
永禄12年(1569年)
北条氏政が今川氏の援軍のため大軍をもって薩垂山を封鎖。物資が不足し甲駿国境に位置する大宮城で苦戦、さらに家康も北条氏と同盟を結んで信玄と敵対したため、横山城に穴山信君を抑えに残し甲斐に撤退する。信玄は大軍を率いて北条を叩くべく上野・武蔵・相模に侵攻。小田原城を包囲するが4日後には撤退を開始する。北条氏照・北条氏邦等を武田軍の甲斐への退却路に布陣させ、小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取り、三増峠において武田軍と北条氏照・氏邦軍が激突(三増峠の戦い)。山県昌景の高所からの奇襲が成功し、北条本隊が到着する前に敵陣を突破する。武田軍は再び駿府を占領する。
元亀元年(1570年)
駿河を完全に平定
元亀2年(1571年)
大規模な遠江・三河侵攻を行い小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還する。北条氏康が小田原で死去し、後を継いだ嫡男の氏政は「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄し甲相同盟を結ぶ。武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達する。織田信長による比叡山焼き討ちにより天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)が甲斐に亡命。法親王を甲斐で保護し、座主の計らいにより権僧正の僧位を与えられる。
元亀3年(1572年)
将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて甲府を進発。秋山信友は信長の領土・東美濃に、山県昌景は家康の領土・三河に、信玄は馬場信春と共に大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め込み、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落とす。山県昌景は柿本城、井平城(井平小屋城)を落とし信玄本隊と合流。秋山信友軍は東美濃の要衝である岩村城を落とす。遠江一言坂において家康と戦い、兵力の差と信玄の巧みな戦術で家康を破る(一言坂の戦い)。遠江の要衝である二俣城が陥落。徳川方の本拠浜松城を危機的状況に追い込むが、浜松城を攻囲せず西上しようとする武田軍の動きを見て遠江三方ヶ原に打って出た家康軍を祝田返しで大勝する(三方ヶ原の戦い)。織田方の援軍も壊滅し平手汎秀は戦死。家康が野戦で大打撃を受けたのは、後にも先にもこの時だけ。
天正元年(1573年)
三河に侵攻し野田城が落城(野田城の戦い)。甲斐に引き返す三河街道上で信玄が死去し信玄の四男、武田勝頼が甲斐武田家第20代当主となる。山家三方衆の一つ奥平貞能・貞昌親子が徳川方に寝返る。長篠城が徳川軍によって陥落する。
天正2年(1574年)
東美濃の織田領に侵攻し明智城が落城。遠江国の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった堅城・高天神城を陥落させて城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定。
天正3年(1575年)
徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するため長篠城を攻撃。織田・徳川連合軍と長篠(設楽ヶ原)で合戦。土屋昌次が戦死、武田軍は総崩れとなり、敗走する中で馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟など戦死。東美濃の岩村城が陥落し秋山信友は処刑。家康によって遠江国二俣城が開城し、城主依田信蕃は城から退去。
天正5年(1577年)
上杉謙信と同盟を結び、甲相同盟を強化するため北条氏政の妹を継室として迎える。
天正6年(1578年)
上杉謙信が病死し上杉景虎と上杉景勝との間で御館の乱が勃発。上杉景虎の支援のため越後へ出兵するも和議の申し出を受け入れ甲相同盟は解消。常陸国の佐竹氏と同盟(甲佐同盟)。
天正9年(1581年)
高天神城城主・岡部元信は徳川軍に突撃して戦死。高天神城落城は武田家の威信を大きく下げ国人衆は大きく動揺。日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まる。武田勝頼は躑躅ヶ崎館から新府城に移転し、躑躅ヶ崎館は廃城となる。
天正10年(1582年)
木曾義昌が織田氏に謀反。穴山信君が家康に内通。織田軍の甲斐進軍により岩殿城に向かう途中に笹子峠で信茂の謀反に遭い天目山にて勝頼、信勝親子は自害、武田家滅亡。