上田長尾氏関連城跡

中世の新潟県南魚沼市は豪族である上田長尾氏が坂戸城を居城として支配していました。上田長尾家は上杉謙信の養子として越後国守護の上杉家の家督を継ぎ、のちに米沢初代藩主となる長尾顕景(上杉景勝)を輩出しています。上杉景勝ゆかりの坂戸城は数々の戦歴を語る貴重な山城として昭和54年(1979年)に国指定史跡となり、樺沢城跡は昭和43年(1968年)に県指定史跡になりました。
坂戸城の特徴
坂戸城は築城年代は不明ですが、養和元年(1181年)に木曽義仲が越後国を侵攻したときに、越後守の城資永と城資茂が坂戸城に入城したとされています。鎌倉時代には魚沼郡南部には上田荘があり新田氏一族の支配下にありましたが、南北朝時代に北朝方の越後国守護上杉憲顕が南朝方の新田氏を駆逐し、上杉氏家臣の長尾高景の一族が坂戸城を居城として上田長尾氏の祖となりました。
鬱蒼とした森の中にあります
巨大な坂戸山に築かれた城です
永正7年(1510年)に関東管領上杉顕定が下克上により討たれると上田荘は長尾氏の所領となり、上田荘の魚野川舟運、鉱山資源、麻織物などの豊かな財力を背景に永正9年(1512年)に長尾房長が坂戸城を本格的に築城しました。坂戸城は、東西に魚野川と三国川が流れる標高634メートルの巨大な山塊の坂戸山に築かれています。
上田長尾家の屋敷がありました
山頂にある実城には石垣が残されています
坂戸城は、石垣がある実城を山頂に置き、山頂まで三筋の尾根の要所に大城・小城・主水曲輪などの大規模な曲輪を配します。山裾に御館を構営、山麓を流れる魚野川を第一の防御線として関東を結ぶ交通の要衝となりました。永正の乱、天文の乱、御館の乱など越後の命運をかけた戦いで北条や織田の軍を撃退しています。
戦国時代の坂戸城
越後守護代長尾氏の家督を巡り長尾晴景と長尾景虎(のちの上杉謙信)が争うと、長尾房長の子である長尾政景は晴景方につきました。長尾景虎が家督を継いだ後も政景はこれに反抗しますが、天文20年(1551年)に長尾景虎が坂戸城を包囲すると長尾政景は降伏し、それ以来上杉家の重臣として活躍しています。長尾政景の子である長尾顕景は上杉謙信の養子となり上杉景勝となりました。
御館の乱に勝利して上杉氏の家督を継承しました
坂戸城の麓には家臣の屋敷跡が並んでいました
天正6年(1578年)に上杉謙信が死去すると上杉景勝と北条氏からの養子上杉景虎による家督争い(御館の乱)が起こります。関東との国境に近い坂戸城は、上杉景虎を支援する北条氏の軍勢を食い止め、上杉景勝は御館の乱に勝利して越後国主となり春日山城に入城しました。慶長3年(1598年)に上杉景勝が会津に国替になると、堀直竒が二万石で坂戸城に入城して石垣を築くなど改修しましたが、慶長14年(1609年)に堀直竒が信州飯山城に転封となり坂戸城は廃城となりました。
樺沢城跡
坂戸城から南西約5キロ地点にある樺沢城は、南北朝時代に鞠子城と呼ばれる新田義貞の家臣田中右衛門尉の居城で、上杉時代に樺沢城と呼ばれるようになりました。標高304メートルに本丸を置き、帯曲輪が二重に取り囲み、中腹より下を三重四重に空堀と土塁が鉢巻き状に取り巻く堅固な造りです。上杉謙信が関東進出の宿城となり栗林氏、黒金氏、宮嶋氏、登坂氏が城代を務めました。
上杉景勝が生まれた城です
樺沢城元屋敷があった跡地です
天正6年(1578年)の御館の乱では、北条軍侵攻の最前基地で上田口攻防の拠点となりました。上杉景虎の援軍として北条氏照・氏邦(景虎の兄)らは三国峠を越えて樺沢城を奪取しましたが、冬季が近づいたことで樺沢城に北条氏邦や北条高広らを置いて撤退をしますが、坂戸城を守る栗林政頼らが攻勢に転じて追討しています。
まち旅(旅行、観光)の記録
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- 住所
- 〒949-6611 新潟県南魚沼市坂戸
- アクセス
- JR六日町駅より徒歩20分
- 営業時間
- 24時間
- 料金
- 無料
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