三俣宿と荒戸城
三俣宿は古くから関東と北越を結ぶ三国街道の交通の要衝でした。上杉謙信の関東出兵では宿場や休息所として利用され、御館の乱では北条氏が関東からの侵攻に備えて荒戸城が築城されました。江戸時代になると幕府は佐渡の金銀山経営を目的として三国街道として整備し三俣宿は正式に宿場町となり脇本陣池田屋は当時の建物を今に残します。
三国街道と三俣宿
越後国と関東を結ぶ三国街道は、越後・上野・信濃国の3つの国境を意味する三国峠を抜ける古くから重要な街道でした。戦国時代には上杉謙信が関東へ出兵したときに使われ、三俣宿の三復庵は上杉謙信が宿泊所や休憩所として利用しました。江戸時代になると江戸幕府が佐渡の金銀山経営を目的に上州高崎から越後寺泊まで続く道を整備しています。
群馬県と新潟県の県境にある峠です
険しい山を通過するため3つの宿場町が設けられました
三国街道の上州永井宿から湯沢宿までの険しい山を越えるため浅貝宿、二居宿、三俣宿の3宿が設けられました。三俣宿はその中で最大規模で、長岡藩、村松藩などの参勤交代や佐渡奉行の赴任、佐渡へ送られる無宿人などが通行し多くの人の往来や米や織物などの幾多の産物の運搬のために賑わいました。
御館の乱と荒戸城
天正6年(1578年)に上杉謙信が急死して上田長尾家からの養子上杉景勝と北条家からの養子上杉景虎との間で家督相続争いである御館の乱が起こります。このとき、関東から北条氏の侵攻を防ぐため上杉景勝は深沢利重や登坂与衛門尉らに命じて三国街道に荒戸城が急遽築かれました。
主郭を中心に曲輪が3つ設けられます
土塁と横堀、土橋で枡形を形成しています
荒戸城は北条方の猛攻により落城し湯沢一帯は北条方の支配地となりました。一度は上杉方が奪還しましたが北条方の猿ケ京衆の攻撃で再度攻め落とされています。この戦いで直江景勝の父直江兼豊の叔父と言われる樋口主水助兼一が戦死したと伝わります。
最高所にあり広場になっています
空堀と曲輪が今も綺麗に残されています
荒戸城は戦国時代の山城としては築城年代がはっきりしており、さらに城郭が完全に保存されるなど歴史的に貴重な遺跡として昭和46年(1971年)に湯沢町文化財に指定され昭和51年(1971年)に新潟県文化財に指定されています。
戊辰戦争と脇本陣池田屋
江戸時代に幕府により三国街道の整備が進められると、三俣宿は宿場町に指定され宿駅が整備されました。本陣1軒と脇本陣3軒が定められ、これら4軒が問屋を輪番で務めたことから4軒問屋と呼ばれました。脇本陣が3軒あるのは三国三宿の中では最大規模で、難所である二居峠や八木沢口留番所が控えていたことから重要視されていました。
脇本陣のほか問屋としても機能しました
明治時代には山県有朋や森鴎外らが宿泊しています
幕末の戊辰戦争では三国峠の戦いで戦線を維持できなくなった会津軍が二居峠まで撤退するときに浅貝宿と二居宿の本陣や脇本陣などの建物は焼失しました。三俣宿では本陣の関新右衛門と戦国武将の池田輝政の末裔とされる脇本陣の池田七右衛門が共に白装束に身を包み会津軍に懇願したことで焼失を免れたと言います。脇本陣の池田家は当時の建物が現存して貴重なことから昭和29年(1954年)に新潟県の文化財に指定されています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒949-6211 新潟県南魚沼郡湯沢町三俣780
- アクセス
- JR越後湯沢駅から車で25分
- 営業時間
- 09:00~16:30
- 料金
- 300円
- 地図