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中津川渓谷と秋山郷

長野県下水内郡の旅行で訪れた観光名所、福原総本家旧宅

秋山郷は、信濃川の支流である中津川の上流域に点在する越後8集落と信州5集落の総称です。江戸時代後期の商人にして随筆家の鈴木牧之は著書の秋山記行で、秋山郷の素朴な生活や風景を紹介し桃源郷と呼んでいます。山肌迫る渓谷美は紅葉の名所として知られ、平家落人の伝承やマタギ文化など昔ながらの生活様式が色濃く残る秘境地域です。

福原総本家旧宅

苗場山と鳥甲山に挟まれた秘境の秋山郷のうち、小赤沢集落にある福原家の総本家の旧宅は、昭和50年(1975年)に修復し保存展示されました。今から230年ほど前の江戸時代末期に建てられた茅葺き中門造の民家で、日本有数の豪雪地帯である秋山郷の典型的な家屋です。茅葺屋根は合掌造りの流れをくむ中門造りという特徴的な様式です。

福原総本家旧宅

長野県下水内郡の旅行で訪れた観光名所、福原総本家旧宅豪雪地帯の秋山郷の一般的な家屋でした

福原総本家旧宅

長野県下水内郡の旅行で訪れた観光名所、福原総本家旧宅囲炉裏の煙が伝統的な茅葺屋根の家屋を守ります

茅葺屋根の家屋は囲炉裏に火を起こして燻して屋根が腐らないようにします。定期的に囲炉裏に薪をくべて家屋を管理している方によると、福原総本家旧宅は小学校としても使用されていました。現在は過疎化が進み集落に小学生はいませんが、かつては数名の子供がそれほど広くない福原家旧宅の部屋を各学年ごとに分けて授業が行われました。

仏間

長野県下水内郡の旅行で訪れた観光名所、福原総本家旧宅_仏間仏間から明治天皇の勅命も発見されました

飢饉の記録

長野県下水内郡の旅行で訪れた観光名所、福原総本家旧宅_飢饉の記録江戸時代に飢饉が起こり集落が壊滅しました

福原家旧宅の仏間には秋山郷を襲った飢餓の記録が展示されています。天明3年(1783年)に発生した浅間山の噴火では、火山噴出物が陽光を遮り冷害を悪化させて農作物に壊滅的な被害を与えました。天明の大飢饉と呼ばれたこの天災は、大赤沢村では173人が亡くなり22軒のうち9軒が死に絶え、大秋山村と矢櫃村は滅んでしまいました。

秋山郷を救った佐藤佐平治

天保の大飢饉が起きて、泊村の庄屋である福原新左衛門は、秋山郷の村々を廻り天保の大飢饉の被害の状況を詳細に調べました。福原新左衛門は来年植える種苗さえも食べて飢えに苦しむ人々を救うために片貝村(新潟県小千谷市)で造り酒屋伊丹屋を営む佐藤佐平治に相談することにします。佐藤佐平治は江戸に店を出すほど商売が繁盛していた実業家ですが、慈悲深い人で飢饉で苦しむ人に食事を与えてる人物でした。

福原新左衛門の訴えにより佐藤佐平治は快く秋山郷の救済を行うことにします。秋山郷の人は雪が降る道を裸足で70キロ歩いて佐藤佐平治の屋敷まで行き、佐藤佐平治から一人一俵の食料をもらい秋山郷へと帰りました。こうした調整をしていた福原新左衛門は運搬や配分などのやり繰りで過労で病に倒れ、介護していた娘もまた同様に病で亡くなる悲劇となりました。

佐藤佐平治は50両もの大金を秋山郷に寄付しますが、秋山郷の人々は有効な活用について悩んだ挙句、佐藤佐平治に相談しました。佐藤佐平治はそのお金を借りた形にして利息を秋山郷の人々に還元することにして、佐藤家の子孫まで続けられ135年にも渡る昭和42年(1967年)まで続けられました。今でも秋山郷には佐藤佐平治と福原新左衛門の戒名が書かれた掛け軸が残され、毎年佐平治祭りを行い感謝の気持ちを現しています。

旧鳥甲牧場跡

鳥甲牧場は昭和50年(1975年)に標高千メートルほどの高原に開園した村営牧場です。20ヘクタールの敷地に食用牛と乳牛の両方を400頭近く放牧して育てていました。鳥甲牧場周辺にはシルト層を主体とする五宝木湖成層と呼ばれる湖成層が分布することから、かつては湖であったことが推測されています。

旧鳥甲牧場跡

長野県下水内郡の旅行で訪れた観光名所、旧鳥甲牧場跡牛舎と思われる建物は廃墟と化しています

旧鳥甲牧場跡

長野県下水内郡の旅行で訪れた観光名所、旧鳥甲牧場跡広々とした高原にはサイロが残されています

鳥甲牧場は現在は廃業しておりサイロや牛舎などの建造物は朽ち果てて廃墟と化しています。鳥甲牧場の跡地は苗場山麓ジオパークのトレッキングコースの整備が進められています。

まち旅(旅行、観光)の記録

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まち旅(旅行、観光)の記録
住所
〒949-8321  長野県下水内郡栄村堺小赤沢
アクセス
JR森宮野原駅より車で約1時間
営業時間
8:30~17:00
料金
無料
地図