せせらぎの小径と雨情公園
下呂温泉街は飛騨川と飛騨川に注ぐ阿多野川の周辺に広がっています。阿多野川沿いの道をせせらぎの小径と呼び、温泉宿や商店が並びます。また、阿多野川の上流にあたる阿多野谷は雨情公園が整備されていて、せせらぎの小径から雨情公園に至る道は気持ちよい散歩道になっています。
せせらぎの小径
せせらぎの小径は、飛騨川に近い白鷺橋から阿多野川沿いにつけられた散歩道です。商店や温泉宿が並ぶ下呂温泉街のメインストリートになります。
下呂温泉の名称は昭和以降に使われるようになりました。その昔は下留と呼ばれていて飛騨が米の収穫量が少なかったことから下々国と呼ばれていたことから次第に「げる」と呼ばれ、それが「げろ」となり、呂とは温泉の風呂を意味するため下呂が漢字としてあてられたと言われます。
下呂温泉は武田信玄の父である信虎の代からの「隠し湯」としても知られており、川中島の合戦のあとに信玄や配下の者たちが湯治に訪れたとも言われ、また織田信長の統治になると織田信長が湯治に訪れた記録があります。
下呂温泉はもともと湯之島温泉と呼ばれ、江戸時代には飛騨街道と中山道の分岐にあたり湯之島宿が置かれていました。明治5年(1872年)に宿駅制度が廃止になると湯之島宿(下呂宿)は廃止されました。
林羅山が天下の名泉と呼びました。
阿多野川を挟んで温泉街が広がっています。
下呂温泉を世に広めた一人が林羅山です。林羅山は江戸時代初期の儒学者で日本三名泉(草津、有馬、下呂)の名付け親と言われています。
古くから名湯と慕われ大名などが湯治に訪れるほか、宿場町として多くの旅人が訪れた温泉街を思い描きながら歩いてみるのも情緒があります。せせらぎ小径は長い歴史の集大成のような気がします。
林羅山
林羅山(1583 - 1657)は江戸初期の儒学者です。京都に生まれて臨済宗の建仁寺に入って儒学と仏教を学び、徳川幕府に召し抱えられて家康、秀忠、家光、家綱の4代将軍に仕え侍講として儒書や史書を講じました。また常に将軍の傍らにあって、儀式・典礼の調査、法度の制定や古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草に当たりました。
寛永7年(1630年)に将軍家光から江戸上野忍ヶ岡に土地を与えられ、私塾・文庫と孔子廟を建てます。のちに神田の昌平坂に移されて幕府直轄の昌平坂学問所および聖堂となり、林家の家学である朱子学が幕府の正学となる基を開きましたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火によって神田の本邸の文庫を焼失してしまい、落胆して病臥して没しました。
雨情公園
下呂温泉街が広がる飛騨川に水が注ぐ阿多野谷の上流に広がる公園が雨情公園です。下呂の山ふところから流れ出る阿多野谷の清流が公園の中央を流れます。
雨情公園は昭和のはじめ頃、歌謡詩人、野口雨情が下呂の地に来遊した際に作った下呂小唄にちなんで名付けられました。夏には園内にある谷で水遊びをすることもできます。
野口雨情
野口雨情(1882年 - 1945年)は本名を野口英吉といい、現在の茨城県北茨城市に生まれました。詩人であり『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』など多くの童謡や民謡を作詞しました。北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と言われます。
東京専門学校(現早稲田大学)を中退し詩作活動を行い日本民謡協会の理事長となりました。昭和20年に永眠するまで全国各地を巡訪し地方小唄も作詞しています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒509-2202 岐阜県下呂市森2707
- アクセス
- JR下呂駅から徒歩20分
- 営業時間
- 特になし
- 料金
- 無料