白川郷
雪深い地域にある岐阜県大野郡の白川郷は独特なかわいらしい建物が並んでいます。今も生活として利用されている茅葺屋根の合掌造りとその風景は、白川郷・五箇山の合掌造り集落としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。
雪を落とすために合掌造りの形になったのでしょうが、狭くなる3、4階では蚕を飼うなど三角形になっている屋根を有効に活用した先人たちの知恵が詰まっています。
白川郷の歴史
白川郷の深い谷間にいつ頃から人が住んでいたのか詳細は分りません。有名な伝承では、源平合戦の初期に起こった越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたといいます。
鎌倉初期の建長5年(1253)に親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教し白川郷の鳩ヶ谷に道場を構え農民たちの間に浄土真宗が広まりました。また、寛政元年(1460年)に信州から内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら大きな勢力を誇りました。
庄川にかかる入口にあたる橋
三角屋根の可愛らしい造りです
越前や加賀、越中で真宗門徒が武家勢力を追い出し農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るい白川郷にも一揆の勢力が流れ込んできて文明7年(1475年)に武力衝突します。翌年、内ヶ島為氏は正蓮寺に籠った僧・明教を焼き討ちし対立は頂点に達しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解により共存共栄を図ることになり文亀元年(1501年)に内ヶ島為氏は正蓮寺を再興しました。
観光客が多いです
のどかな田園風景が広がります
戦国時代の天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が討たれる頃、白川郷を除いて飛騨をほぼ統一した三木自綱は内ヶ島氏理と共に越中領主・佐々成政と反豊臣秀吉連合を組みましたが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉配下の金森長近の軍勢が白川郷を攻撃しました。金森氏は事前に照蓮寺勢力と手を結んだため、越中に出陣中の内ヶ島氏はたまらず降伏します。
白川郷に寺院が残ります
昔ながらの景色が残ります
金森長近は真宗門徒の功績を称えて照蓮寺を高山に移し広大な寺域を与えます。中野の照蓮寺は「中野御坊」と呼ばれ、変わらずに白川郷の信仰の拠り所でした。後に飛騨を数度にわたって白山神を信仰する天台系密教僧侶である円空上人が訪れますが、白川郷では阿弥陀仏以外の信仰を排斥する浄土真宗が強いため、庄川流域へ足を踏み入れることはありませんでした。
合掌造り集落の誕生と衰退
江戸時代の中頃になると現金収入として養蚕業が盛んになります。北陸系の寄棟茅葺屋根が主流だった白川郷では、養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家が誕生しました。
合掌造りの茅葺屋根は30年から50年の耐久性がありますが、その葺き替えには数百人もの人手が必要で村中が協力して屋根葺き作業を行いました。このような屋根葺きを共同で行うような相互扶助を「結」といい、白川郷を含む合掌造り集落では助け合いと協力があってこそ成り立つものでした。
合掌造りの集落は、昭和20年代から始まった庄川流域の電源開発によるダム建設により集落が水没するなどして減少していきました。さらに小集落の集団離村や火災による焼失もあり、合掌家屋の多くが転売あるいは消失しました。大正13年(1924年)に約300棟あった合掌建物は、昭和36年(1961年)には190棟に激減します。
昭和40年代に荻町集落の地域住民が危機感を抱き、昭和46年(1971年)には地域内の資源を「売らない」「貸さない」「壊さない」の3原則を掲げ保存活動を展開し始めました。
これらの保存活動が認められ昭和51年(1976年)に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、平成7年(1995年)には世界遺産に登録されました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒501-5627 岐阜県大野郡白川村荻町
- アクセス
- JR高山駅よりバス白川郷バスターミナルまで約50分、下車すぐ
- 営業時間
- 8:40~17:00(3-11月)
9:00~16:00(12-2月) - 料金
- 600円