登呂遺跡
登呂遺跡は、約2000年前の弥生時代の遺跡として全国的に有名である。昭和18年(1943)年に住友金属が軍需工業用地として埋立工事中に弥生時代後期のものと思われる丸木舟・住居跡・水田跡などを発見しました。戦後に本格的な調査を行い住居跡、倉庫跡、水田跡の存在が明らかになり、多数の土器・木器類が見つかりました。登呂遺跡は国の特別史跡に指定され、史跡公園として住居や倉庫が復元されました。
登呂遺跡
登呂遺跡がある静岡平野は、安倍川と藁科川がつくった扇状地で約2000年前の弥生時代後期、二つの川の流れからできた自然堤防のような小高い土地には多くの集落が存在しており、その一つが登呂遺跡になります。
登呂遺跡は、戦後の昭和22年(1947)から本格的な調査が行われ、12棟の住居、2棟の高床倉庫、8ヘクタールの水田跡が発見され、弥生時代後期(約2000年前)の稲作を中心とした集落の姿が明らかになりました。住居や高床倉庫の形は、銅鐸や土器に描かれた絵などをもとに昭和26年(1951年)に最初の復元住居が作られました。
水田跡が見つかりました
住居や倉庫のほか祭殿が並びます
登呂遺跡は洪水による被害を受けながらも、弥生時代後期から古墳時代(1世紀~5世紀)まで続いた遺跡でした。住居や高床倉庫の他に祭殿が建てられ、住まいの区域と水田の区域の境に水路がつくられていました。水田は大区画の中を小区画に分けていました。
復元された住居です
住居や倉庫のほかに祭殿がありました
登呂遺跡に隣接する登呂博物館では出土品の土器や丸木舟が展示されています。重要文化財に指定された土器や丸木舟、実際に生活に使っていた道具などを見ることができます。また、当時の人々の食事や生活の様子なども紹介されています。
芹沢銈介の家
登呂博物館の近くに芹沢銈介の家があります。この建物は芹沢銈介が没した昭和62年(1987年)に芹沢邸のあった東京蒲田から移築した二階建ての建物です。一般的には1階しか公開されていませんが、1階は土間と20畳の板の間、2階は10畳2間の和室になっています。
芹沢銈介(1895~1984)は静岡県葵区に生まれた染色家であり人間国宝です。東京高等工業学校(現・東京工業大学)図案科卒業後、生涯の師である柳宗悦と沖縄の染物・紅型に出会ったことを契機に型染めを中心とした染色の道を歩み始めます。
芹沢の染物は新鮮で創意溢れた作品を次々と制作し、国内を問わず海外からも高い評価を得ました。昭和51年(1976年)にはフランス政府から招聘されパリで大規模な個展を行い、同年に文化功労者となりました。
この家は宮城県登米市にあった板倉でした。1階は米や野菜、農具などを収納し、2階は雇い人などの宿泊場所として使われていました。芹沢はこの板倉に惹かれ昭和32年(1957年)に東京蒲田の自邸内に移築し、主に客人を迎える場所として利用されていました。
古い板倉だった建物です
室内にはアンティーク家具が並びます
室内にはメキシコ、イギリス、フランス、日本などの家具、木工品が集められています。電灯はフィンランド製で、芹沢の芸術的なセンスが感じられます。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒422-8033 静岡県静岡市駿河区登呂5-10-5
- アクセス
- JR静岡駅からバス「登呂遺跡」下車、徒歩5分
- 営業時間
- 9:00~16:30
- 料金
- 360円