島田宿大井川川越遺跡
江戸時代、駿河国と遠江国の国境にあたる大井川は防衛目的などの理由により幕府により架橋、渡船が禁じられていました。馬子唄で「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われるほど大井川の川越は東海道で最大の難所であり、増水のため川留めになると水が引くまで何日も待つことがありました。
大井川を渡るためには人足に肩車をしてもらうか、輦台(れんだい)と呼ばれる神輿のような乗り物で担いでもらう必要がありました。この川越しの管理・統制は、島田代官や宿場役人が行っていましたが、元禄9年(1696年)に川越制度が確立し、川庄屋と年行事が任命されて運営されました。
島田宿は大井川を渡る川越の起点として大変賑わいました。島田宿大井川川越遺跡は、当時の川越の料金所(川会所)や人足の待合所(番宿)などを復元、保存し、当時の様子を今に伝えています。昭和41年に国の史跡に指定されました。
川会所(川越の料金所)
川会所は日々の川越賃銭の決定や徴収など川越業務の管理雲煙を行っていました。元禄9年(1696年)に大井川を渡る取り決めを定めた川越制度が確立すると、川庄屋(料金の決定などを行う)や年行事(料金の徴収や記帳などを行う)などが交替で詰めました。
川を越えるための料金所です
川越制度で二人が川越を仕切りました
年行事は、川越人足を勤めた者の中から高齢者があてられ、川越料金の徴収、帳簿の記載、人足の配置などを行い、川庄屋は、伝馬方の中から選ばれその日の川越料金を決定するのが主な仕事でした。
料金は概ね川の深さにより値段が決められていました。股より下なのか、腰より下なのか、胸の下なのか、首より下なのかと言った具合です。
- 股通
- 48文(約1,440円)
- 帯下通
- 52文(約1,560円)
- 帯上通
- 68文(約2,040円)
- 乳通
- 78文(約2,340円)
- 脇通
- 94文(約2,820円)
旅人は川会所で川越のための切符にあたる川札や台札を買い求めたあと、立会人や陸取の案内で大井川の渡し場である越場へ向かいました。
神輿のような乗り物です
川越制度で二人が川越を仕切りました
川会所の敷地内には松尾芭蕉の「馬方はしらし時雨の大井川」の句碑があります。元禄4年(1691年)の川越制度がまだ確立していない頃に松尾芭蕉が大井川を渡った時の心境を詠んだといわれています。
江戸時代の川会所は現在地よりも東にありましたが、明治以降数回移転して昭和45年(1970年)に現在地に移りました。現存する川会所は安政2年(1855年)に地震で倒壊したため、翌年に再建された建物を復元したものです。
大井川沿い
島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が慶長の大洪水(1604~1605)で決壊し、島田宿のすべてが押し流されました。島田代官長谷川藤兵衛長勝のころ、向谷水門の掘抜き、宿内に3本の灌漑用水を完成させて復興しました。この頃に造られたのが島田大堤です。
島田宿とその下流を守る大堤です
せぎ跡より西側は河原でした
大井川に平行に街道の左右に「善太夫嶋堤(せぎ跡)」があります。河原の石が積まれ溝に板を挟んで堤防の役目をしました。築堤時期は不明ですが、宝暦年間(1751~1764)には築かれていたと考えられています。この「せぎ跡」より西側は大井川の河原でした。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒427-0037 静岡県島田市河原1丁目14−4
- アクセス
- JR島田駅からバス10分向島西川越し街道入口下車徒歩5分
- 営業時間
- 8:30~17:00
- 料金
- 無料