富山城址公園
富山城址公園は7.06ヘクタールの広大な敷地に富山城の城跡が公園として整備されています。城内部は広い芝生公園を挟んで富山市郷土博物館と佐藤記念美術館があります。富山市郷土博物館では富山城の歴史が展示され、佐藤記念美術館では東洋の古美術等を展示されています。
嘉永2年(1849年)に建築された。
富山藩2代目藩主で新薬開発や売薬活動を普及した。
佐藤記念美術館は富山県砺波市出身の実業家であり茶人でもあった故佐藤助九郎氏が中心となって、1961年に開館されました。館内には、展示室のほかに佐藤家から「柳汀庵」「助庵」という二席の茶室と1920年竣工の総檜造広間が移築されています。
佐藤記念美術館の前は庭園になっています。
本丸亭では茶会が開かれるようです。
富山城の歴史
富山城は天文12年(1543年)に畠山氏の守護代であった神保長職が家臣の水越勝重に命じて築いたと伝わります。明治まで城のすぐ北を神通川が流れており天然の堀となっていました。
永禄3年(1560年)に神保長職が長尾景虎(後の上杉謙信)に城を追われ、その後は上杉氏、神保氏、一向一揆などの間で争奪戦が繰り広げられました。天正年間には織田信長が佐々成政に富山城を与えましたが、天正10年(1582年)の本能寺の変後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立の末降伏し、城は破却されました。
加賀藩初代藩主の前田利長は隠居するための城として富山城を整備しました。加賀藩三代・利常は寛永16年(1639年)に次男の利次に10万石を与えて分藩し富山城を居城とした富山藩が成立し幕末まで続きました。
明治になり、本丸には富山県庁が置かれましたが火災や空襲などもあり、城跡のほとんどの建造物は失われました。昭和29年(1954年)に富山産業大博覧会の開催に合わせて、犬山城や彦根城を参考に3層4階の模擬天守(現・富山市郷土博物館)が造られました。平成16年に戦災復興期の代表的な建造物として国の登録有形文化財に指定されました。
- 天文12年(1543年)
- 神保氏の家臣・水越勝重が築城
- 元亀3年(1572年)
- 一向一揆勢が富山城を占拠
- 天正4年(1576年)
- 上杉謙信が富山城を奪取
- 天正9年(1581年)
- 織田信長が越中をほぼ制圧
- 天正10年(1582年)
- 信長の家臣・佐々成政が富山城に入り改修を行う。本能寺の変で信長が亡くなる
- 天正13年(1585年)
- 秀吉が10万の大軍で富山城を包囲し、佐々成政は秀吉に降伏。富山城は取り壊された上で前田利家の領地となる
- 慶長10年(1605年)
- 前田利長が富山城を修築して、隠居城とする
- 慶長14年(1609年)
- 火災によって富山城の建物が焼失し、利長は高岡城を新たに築いて移る
- 寛永16年(1639年)
- 加賀藩主前田利常は次男・利次に富山藩を作らせる
- 寛永17年(1640年)
- 富山藩が成立
- 寛文元年(1661年)
- 前田利次は富山城を改修
- 正徳4年(1714年)
- 本丸御殿が火事で焼失、東出丸に仮御殿を建てて移る
- 天保2年(1831年)
- 火事で東出丸の御殿を焼失、再度本丸に御殿を建てて移る
- 嘉永2年(1849年)
- 10代藩主利保が東出丸に隠居のための千歳御殿を建設
- 明治32年(1899年)
- 県庁舎として利用されていた本丸御殿が火事で焼失
- 昭和29年(1954年)
- 富山産業博覧会に際して模擬天守が建てられる
- 平成16年(2004年)
- 模擬天守が国の有形登録文化財に指定される
- 平成20年(2008年)
- 現存する千歳御門が本丸に再移築される
富山城の特徴
富山城は、飛騨街道と北陸街道が交差する交通の要害に位置する平城で、戦国時代には争奪戦が繰り広げられました。
佐々成政が富山城に入城すると神通川流れを変えて水を城の周りに引き、城の防御に利用しました。水に浮いたように見えたため浮城とも呼ばれます。
自然石を石垣とした積み方です。
名前は分かりませんが、赤い橋が架かっていました。
明治時代の作曲家、滝廉太郎が作った「荒城の月」のモデルにも数えられ、続日本100名城にも選ばれています。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒930-0081 富山県富山市本丸1
- アクセス
- JR富山駅から徒歩10分
- 営業時間
- 富山市郷土博物館、佐藤記念美術館は9:00~17:00
- 料金
- 無料(郷土博物館、佐藤記念美術館とも210円)