ひがし茶屋街
ひがし茶屋街は重要伝統的建造物保存地区として、かつて茶屋街としてにぎわった町並みが保存された地域です。現在はおみやげ店や飲食店などがリノベーションされた町家を店舗に多数営業している商店街になります。
ひがし茶屋街
ひがし茶屋街は文政3年(1820年)に加賀藩が城下のお茶屋を集めて誕生した藩公認の茶屋まちで、かつて茶屋街としてにぎわった町並みが保存された重要伝統的建造物保存地区です。芸妓が粋で雅な芸で客をもてなす大人の社交場として繁栄した趣が今もなお残されています。
茶屋街の古い町並みです。
展望が良いです。
ひがし茶屋街に並ぶ町家は「木虫籠(きむすこ)」と呼ばれる建築になっています。木虫籠は格子の割付が細かい出格子を指す言葉で、内から外はよく見えるのに外から内が見えにくい構造となっています。
武士は出入りが禁止されており、裕福な商人や町衆のみが夜な夜な集い、遊宴を楽しんでいたのです。しかも、清算は全て「後日払い」。お茶屋と限られた旦那衆と間の信頼関係で成り立つ、一見さんお断りの大人の社交場だったのです。
菱櫓と橋爪門続櫓をつないでいます。
明治37年(1904)建造の国登録有形文化財
ひがし茶屋街の少し外れたところに経田屋米殻店がありました。経田屋は江戸時代末期に米穀商として創業した金沢を代表する老舗米殻店です。建物は明治37年(1904)建造され、平成16年(2004年)に国登録有形文化財に登録されました。
このような木造建築が多いためでしょうか。ひがし茶屋街には浅野川大橋詰火の見櫓がありました。大正13年に建造(昭和46年に改造)された市内に現存する最古の火の見櫓で国登録有形文化財に指定されています。
茶屋街の歴史
茶屋街の歴史をまとめてみました。
- 元禄3年(1690年)
- 高崎事件(加賀藩士4人が遊女19人を囲い出合宿として経営していた事件)
- 文政3年(1820年)
- 茶屋街が誕生
- 天保2年 (1831年)
- 風気が乱れるなどの理由から茶屋を一旦廃止となる
- 寛永14年(1637年)
- 士人以下の風俗に関する制限
- 寛永16年(1639年)
- 風俗に関する取り締まり令
- 弘化3年 (1846年)
- ひがし茶屋街が「愛宕」の名称に変更となる
- 慶応3年(1867年)
- 廃止されてから再び公認される
- 昭和37年(1962年)
- 主計町も尾張町2丁目という表記となる
- 平成元年(1989年)
- 茶屋街の名称が使われる
- 平成11年(1999年)
- 旧町名の主計町が全国で初めて町名として復活する
- 平成13年(2001年)
- 「東山ひがし」として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定
主計町茶屋街
主計町(かずえまち)は加賀藩重臣である富田主計重家の屋敷があったことに因むとされており、ひがし茶屋街、にし茶屋街と共に3大茶屋街に数えられます。
浅野川の水運とともに人や物資が行き交う場所として、明治時代に入ると西の母衣町に芸妓衆が住まい、宿屋などが立地して大変繁華していました。
主計茶屋街の細い路地にあります。
浅野川のほとりに主計茶屋街があります。
主計町(かずえまち)茶屋街は広くはありませんが川沿いに並んだ町屋と狭い路地の雰囲気がとても良い場所です。作家・五木寛之氏が命名した「あかり坂」など趣があるスポットが多いです。
卯辰山山麓寺院群
浅野川に隣接する卯辰山のふもとには、約50の寺社が散在しています。寺町寺院群、小立野寺院群とともに金沢三寺院群のひとつであり、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
主計茶屋街の細い路地にあります。
芸妓たちの鎮守の神として祀られました。
宇多須神社、浅野川の河辺から掘り出した古鏡に卯と辰の紋様があり、卯辰神を祀ったことが起こりとされています。初代利家没後、卯辰八幡宮を建立し利家の神霊を祀って藩社としました。境内奥手には五代綱紀の病を平癒したとする「利常公酒湯の井戸」があります。
菅原神社は、妓楼が公許された際に菅原道真を祀り芸妓たちの鎮守の神としました。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒920-0831 石川県金沢市東山1丁目
- アクセス
- JR金沢駅から徒歩20分
- 営業時間
- 特になし
- 料金
- 無料
- 地図