法隆寺

推古天皇9年(601年)に聖徳太子が斑鳩宮を造営し、ここに亡き父用明天皇のため寺の造立を発願され推古天皇15年(607年)ごろに完成したのが法隆寺で世界最古の木造建造物と言われます。
聖徳太子(574~662)は太子は中国の優れた政治や文化、とりわけ仏教を積極的に取り入れ、四天王寺、中宮寺、広隆寺などの寺々を建立し、冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣などによって国の発展を計られましたが、惜しくも推古30年(622)49歳のとき、人々の悲嘆のうちに薨去されました。
1993年には法隆寺地域の仏教建造物として法起寺とともに世界遺産に登録されています。
法隆寺の伽藍
法隆寺の金堂は世界最古の木造建造物であり五重塔は高さ34mあり日本最古の五重塔です。
最古の木造建築物です。
日本最古の塔で国宝に指定されています。
金堂は飛鳥時代に建造された西院伽藍最古の建築で国宝に指定されています。入母屋造り二重の瓦屋根と下層の裳階(もこし)の板葺きの対比、これに奥深い軒下の垂木や雲斗・雲肘木が調和しています。
日本最古の塔である五重塔は飛鳥時代に建造されたもので国宝に指定されています。五重目の軸部が初層の半分の大きさになっており、これに深い軒の出が相まって安定感を与えています。その軒を雲肘木が優しく支えて見る人を飽きさせません。心柱の下にある心礎には、仏舎利が納められています。
飛鳥時代に建造されました。
回廊も国宝に指定されています。
西院伽藍の本来の入口となる中門は飛鳥時代に建造された国宝です。軒が深く覆いかぶさり正面が四間二戸と入口が二つある形が特徴です。エンタシスの柱や上層には金堂と同じ卍崩しと人字型の割束を配した高欄を備え壮麗な飛鳥時代の様式を今に伝えています。
回廊は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵につながり、並立する五重塔と金堂を囲んでいます。平安時代以前の回廊は経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていました。また西側より東側のほうが一間だけ長くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられています。
堂内には薬師三尊像が安置されます。
3つの経典にちなみます。
大講堂は元は北側の回廊の外に独立して建っていましたが延長3年(925年)に焼失し正暦元年(990年)ほぼ元の規模と同じ大きさの堂々とした姿に再建されました。さらに回廊を北側に延長してこれに取り付けたので堂の前が広く清々しい空間となっています。堂内に安置されている薬師三尊像はこの再建時に新たに造像されたものです。
三経院は、聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈された『三経義疏』にちなんで付けられた名称で西室の南端部を改造して建てられました。
奈良時代建造の国宝です。
法隆寺総門で国宝に指定されます。
夢殿は聖徳太子の斑鳩の宮の跡で朝廷の信任厚かった高僧行信が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願して天平20年(748年)に聖霊会を始行したとされる太子信仰の聖地であります。高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230年)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されていますが古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。
南大門は法隆寺の玄関にあたる総門です。三間一戸の八脚門で現法隆寺建立時には中門前の石段上に立っていましたが寺域の拡大により現在の場所に移されたと言われます。創建時のものは永享7年(1435年)に焼失し永享10年(1438年)に現在の門が再建されました。