闘鶏神社

闘鶏神社は允恭天皇8年(419年)に創建しました。正式には「鬪雞神社」と記載されます。主祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)のほか熊野十二社権現が祀られ、現存する社殿は元和5年(1619年)に建立したものです。
境内には田辺藩初代藩主で幕府老中を務めた安藤直次(あんどうなおつぐ)を顕彰して明治19年に建立された藤巖神社(とうがんじんじゃ)があります。安藤直次は痩せた土地を活用し、梅の栽培を奨励する農業政策を採用し、みなべ町を中心とした梅の栽培、発展につなげた人物です。
夏の例祭は8基の笠鉾が町中を巡行する「田辺祭」として知られ、紀州三大祭の一つに数えられています。
世界遺産と闘鶏神社
平安時代の白河法皇の頃、熊野路に強盗が多く行幸を悩ますため、闘鶏神社に熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)を勧請し、熊野詣が難しい方々はここを参拝することで三山参詣に代えたと云われます。その謂れのように闘鶏神社の社殿の配置は、明治22年の水害で中下社が流失する以前の熊野本宮大社の配置と全く同じです。こうした背景もあり平成28年(2016年)に「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産に追加登録されました。
闘鶏神社の名前の由来
鬪雞神社の名は平家物語壇ノ浦合戦の鶏合せの故事に由来します。武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当・湛増(たんぞう)がどちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせました。すると、ことごとく白(源氏)の鶏が勝利したため、源氏に加勢することを決め熊野水軍200隻を出陣させました。
閑静な神社です。
湛増は武蔵坊弁慶の父と云われます。
熊野水軍は紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍で熊野海賊とも言われています。瀬戸内海の制海権を握り、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍しました。熊野水軍を統括したのは熊野三山の実際上の統括者である熊野別当です。
もともと熊野水軍は平家に加担していましたが、子の武蔵坊弁慶の要請もあり熊野別当・湛増は平氏に味方するか源氏に味方するか迷い、田辺の新熊野神社(現:闘鶏神社)で神意を問い源氏につくことを決めます。
この神意どおり壇ノ浦では源氏に加担、平家は滅亡へと追いやられます。闘鶏神社の神意による熊野水軍の加担が長い源平合戦に終止符を打ったのかもしれません。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒646-0029 和歌山県田辺市東陽1−1
- アクセス
- JR紀伊田辺駅から徒歩15分
- 営業時間
- 特になし
- 料金
- 参拝無料