石見銀山遺跡の発展と衰退

石見銀山は400年もの長い間に銀の採掘が行われた世界有数の鉱山です。16世紀頃からは東アジアの伝統的な精錬技術である灰吹法を取り入れ、良質な銀が大量に生産されるようになり、17世紀初めには世界の銀産銀量の1割が石見銀山で採掘されていました。石見銀山遺跡はアジアで初めて平成19年(2007年)に石見銀山遺跡とその文化的景観として世界遺産に登録されました。
石見銀山の発見と繁栄
石見銀山は、大永6年(1526年)に九州博多の豪商・神屋寿禎により発見されました。神屋寿禎は大内家当主大内義興の支援を受けて開発に着手し、世界の銀産出量400万トンのうち約1割を産出することに成功しました。石見で産出した銀は、中国明や朝鮮、ポルトガルなどの商人との取引に使われました。この時代はヨーロッパで大航海時代が訪れ、ポルトガルやスペインはアジアやアフリカに植民地を拡大していました。スペインは南米で銀鉱山を発見したため、ポルトガルは石見銀山に目を付けて日本との貿易を盛んに行うようになります。
鉱山運営で発展した小さな町です
世界の銀のうち約1割が石見銀でした
石見銀山を開発した神屋寿禎は、朝鮮半島から伝統的な精錬技術である灰吹法を取り入れ銀の生産量をさらに増やすことに成功します。灰吹法は、灰を入れた器に鉛と銀鉱石を置いて加熱することで鉛と銀の合金を作り、ここに強い風を送ることで鉛が酸素と化合して底に沈み、灰の上に純銀だけが残る仕組みです。この方法が日本各地に広まることで日本の銀の産出量は世界の3分の1を占めるほどになりました。
石見銀山を巡る争い
石見銀山から産出される大量の銀は、戦国大名が手が出るほど欲しい存在となります。天文6年(1537年)には出雲の尼子経久は石見鉱山を狙い石見に侵攻し、大内氏と尼子氏の抗争に発展します。大内氏は山吹城を築城して石見銀山の支配を守りましたが、天文20年(1551年)に大内氏16代当主・大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により討たれると毛利元就が台頭してきました。
要害山の上に山吹城があります
現在は西本寺の正門として使用されます
弘治2年(1556年)には尼子氏が山吹城を攻略するなど石見銀山を巡る攻防が繰り広げられましたが、毛利氏は永禄5年(1562年)に尼子氏を滅ぼすと、石見銀山を完全支配して山吹城をさらに要塞化しました。慶長5年(1600年)に関ケ原の戦いで西軍が破れると、西軍に与した毛利氏は長門国と周防国に減封となり、石見銀山は江戸幕府の直轄地として銀山御料と呼ばれるようになります。
江戸幕府の銀山経営と衰退
徳川家康は、鉱山開発の知識がある大久保長安を石見銀山奉行に任命します。大久保長安は石見銀山で採掘に携わる毛利氏の役人で経営技術と銀脈を発見する能力が高い吉岡隼人を採用しました。吉岡隼人は伊豆(現・静岡県)の銀鉱山や佐渡島(現・新潟県)の相川金銀山などで成果を上げ、出雲という称号を手に入れていました。
幕府に取り立てられ鉱山経営に関わりました
鉱山経営の管理を行う場所で国の史跡に指定されています
江戸幕府は大森に代官所を置いて石見銀山を管理したため山吹城は廃城になりました。やがて江戸時代後期から銀の生産量が減少し、明治時代にも稼働はしましたが銀はほとんど産出されなくなったため、大正12年(1923年)に閉山となりました。
大森銀山重要伝統的建造物群保存地区
石見銀山の麓にある大森地区には江戸時代の武家屋敷や代官所跡、石見銀山で栄えた豪商の住宅など歴史的な建造物や文化財が残されています。中でも熊谷家は大森の鉱山経営、金融業、酒造業のほか大森代官所の掛屋・郷宿・御用達などを行う石見銀山大森地区で最も有力な商人でした。
古い町並みが今も残されています
大森地区で最も裕福な豪商の邸宅でした
三宅家住宅として残される居宅は、石見銀山の初期に数多くの重要な行政職を担う田邊家の居宅でした。銀山奉行の大久保長安が田邊彦右衛門を登用してから鉱山政務の役人として従事し、石見の銀が江戸に送られる前に押された刻印を管理する名誉ある職に当たりました。田邊家の居宅は寛政12年(1800年)に火災で焼失しましたが間もなく再建されて三宅家住宅として残りました。
昭和49年(1974年)に県の史跡に指定されました
鉱山開発で亡き人を供養をするための寺院です
大森地区の外れにある羅漢寺五百羅漢は高野山系の寺院です。石見霊場客番十善戒第三番札所に指定されています。左右の石窟の中に石工技術の粋を集めた綿密な造りの五百羅漢像が250体ずつ安置されています。銀山の採鉱で亡き人々の霊と先祖の霊を供養するために、代官や代官所役人などの援助や協力を受けて温泉津町福光の石工が25年の歳月をかけて彫像しています。
龍源寺間歩
石見銀山には大小合わせて600以上の間歩(鉱山の採掘道)がありましたが、その一つ龍源寺間歩は代官所直営の大坑道のひとつで全長は約600メートルあります。現在は途中から新しく開削した栃細谷新坑となり、観光坑道として当時の銀の採掘の解説があります。
代官所直轄の大坑道でした
観光用の坑道として細かな解説があります
龍源寺間歩の狭い坑道のうち約273メートルが開放されています。鉱夫は薄暗い坑道をローソクの明かりを頼りにノミで掘り進めました。坑道は人が歩くところだけでなく、排水のために垂直に100メートルも掘られているところもあります。石見銀山の採掘は、銀鉱脈に沿って狭い坑道を掘り進める採掘方法を採用し、銀の精錬に必要な薪にする木材は植林して補いました。こうした取り組みが高く評価され、世界遺産の認定にプラスに働きました。
- 住所
- 〒694-0305 島根県大田市大森町イ1597−3
- アクセス
- JR大田市駅、JR仁万駅からバス「大森」下車
- 営業時間
- 9:00~17:00(12月から2月は16:00まで)
- 料金
- 410円
- 地図