丸亀城

丸亀城は、標高約66mの亀山に築かれた平山城で別名亀山城と呼ばれ、本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪が残ります。丸亀城は石垣は日本一の高さを誇り「石の城」と形容されます。
丸亀城は、慶長2年(1597年)に生駒親正・生駒一正により築城が始まります。このころの城造りは、織田信長が築いた安土城や豊臣秀吉が築いた大坂城を手本に、城郭だけでなく武家屋敷や城下町までも濠や土を盛った土塁で囲み防御した「総構」となっています。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと幕府は武家諸法度を制定し規制を行います。元和元年(1615年)の一国一城令により丸亀城は廃城となりました。
入口にあたる二の門は高麗造りです。
二の門の次に現れる一の門は大きな櫓門です。
大手一の門は寛文10年(1670年)頃に建築された威厳と風格を備えた櫓門です。藩士が太鼓を打ち、刻を知らせていたことから「太鼓門」とも呼ばれています。東側には出陣に際し武者を一堂に集めた桝形があり他には見られないほど大きなものです。
また、大手一の門の外には大手二ノ門があります。この門は一の門と同時に建てられたと考えられる高麗門形式の門です。
扇の傾斜と呼ばれる石垣です。
広い本丸には天守があります。
三の丸北側の石垣は丸亀城の石垣の中で最も高く20m以上の城壁が続きます。隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美で「扇の勾配」と呼ばれています。
坂道を登り山上の最高所が本丸になります。本丸には天守のほかに隅櫓・渡櫓・土塀が石垣上に巡っていました。現在は礎石や排水路を一部復元しています。
本丸にある天守は、高さが約15メートルある三重三階の造りで、全国に12しか残っていない木造天守の1つです。四国に残る木造天守の中で最も古い万治3年(1660年)に完成しました。唐破風や千鳥破風を巧みに配置し北側には石落しや素木の格子を付け意匠を凝らしています。
日本に現存する12天守の一つです。
日本一深い井戸と云われています。
二の丸には桜が植樹され市民の憩いの広場となっています。この広場の真ん中に二の丸の井戸がありますがこの井戸は日本一深い井戸といわれており、その水面は三の丸北石垣の真ん中ぐらいにあり水深は30m以上あります。
丸亀城の歴史
丸亀城の歴史を年表にまとめてみました。
- 天正15年(1587年)
- 生駒親正、讃岐国に封ぜられる
- 慶長2年(1597年)
- 生駒親正・一正父子丸亀城築城に着手
- 慶長7年(1602年)
- 生駒一正、丸亀城から高松城へ移り、丸亀城に城代を置く
- 元和元年(1615年)
- 一国一城令で丸亀城廃城となる
- 寛永17年(1640年)
- 生駒氏所領没収、出羽国由利郡矢島に転封となり伊予大洲藩主加藤氏の預かりとなる
- 寛永18年(1641年)
- 天草郡、富岡城主山崎家治、西讃岐5万石余の領主となる
- 寛永20年(1643年)
- 山崎家治が丸亀城を再築
- 明暦3年(1657年)
- 山崎氏絶家。大洲藩主加藤氏在番する
- 万治元年(1658年)
- 京極高和、丸亀藩主となる
- 万治3年(1660年)
- 丸亀城天守完成する
- 貞亨5年(1688年)
- 下金倉村の海浜、中洲へ京極家別館をつくる(現中津万象園)
- 明治2年(1869年)
- 京極郎徹、版籍を奉還する。城内屋敷出火し焼失
- 明治7年(1874年)
- 陸軍省の所管となった丸亀城の番丁に丸亀兵営が完成
- 大正8年(1919年)
- 丸亀市が山上部を借地して公園として開設
- 昭和18年(1943年)
- 丸亀城天守国宝となる
- 昭和28年(1953年)
- 丸亀城跡が国指定史跡となる
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒763-0025 香川県丸亀市一番丁
- アクセス
- JR丸亀駅より徒歩約10分
- 営業時間
- 9:00~16:30
- 料金
- 200円